おわりに

 歴史的問題は重大な原則問題である。歴史唯物主義(史的唯物論)と弁証唯物主義(弁証法的唯物論)の立場、観点と方法を運用して、国家、歴史、民族、文化、宗教などの諸問題を正しく理解し、科学的に新疆の若干の歴史問題に回答することは、中華民族の凝集力、求心力に関係し、中国の統一国家の長期の安定に関係し、地域の安全、安定と発展とに関係する。
 現在、新疆の経済は発展を続け、社会は和諧(調和)安定し、人々の生活は絶えず改善し、文化は空前の繁栄を見せ、宗教は温和で仲睦まじく、各民族人民はザクロの種子のように堅く団結し、新疆は史上最良の繁栄発展の時期にある。内外の敵対勢力と「三つの勢力」は気脈を通じて、歴史を改竄し、事実を歪曲し、歴史の流れに逆らって動いているが、その結果は必ず歴史と人民の唾棄するところとなるだろう。
 新疆は新疆各民族人民のものであり、すべての中華民族のものである。中華文化の立場を堅く守り、中華文化の遺伝子を受け継ぎ、各民族共有のスピリッチュアルホームを構築することは、新疆各民族人民を含む全中国人民の共同の責任であり追及しなければならないことである。現在、習近平同志を核心とする党中央の決然とした指導の下、全国人民の関心と支持の下、新疆各民族人民は正に「二百年」の奮闘目標と中華民族の偉大な復興の夢を実現するべく怠らず努力している。新疆の明日はより美しくなる。新疆の明日はきっとより美しくなる!

7.イスラム教はウイグル(維吾爾)人の天生の信仰ではないし唯一信仰する宗教でもない(中国務院新聞弁公室『新疆的若干历史问题』)

 ウイグル(維吾爾)族の先民は最初は原始宗教とシャーマニズムを信仰し、後に相次いでゾロアスター教、仏教、マニ教、ネストリウス派キリスト教、イスラム教などを信仰してきた。唐宋時期には、高昌回紇王国と于闐(ホータン)王国では、上は王侯貴族から下は底辺層の民衆に至るまで普遍的に仏教を信仰した。元代、大量の回紇(古代ウィグル)人がネストリウス派キリスト教に改宗した。今日に至っても、なおいくらかのウイグル(維吾爾)族大衆はイスラム教以外の宗教を信奉し、多くの人は宗教を信仰していない。
 イスラム教の新疆地区への伝来は、アラビア帝国の興隆とイスラム教の東方への拡張と関連がある。ウイグル(維吾爾)族がイスラム教を信仰したのは、当時の民衆が主体的に改宗し転換したのではなく、宗教戦争と支配階級の強制推進の結果である。この種の強迫は決して今日ウイグル(維吾爾)族の大衆がイスラム教を信仰する権利を尊重することに影響しないが、それは歴史的事実である。イスラム教はウイグル(維吾爾)族の天生の信仰する宗教でないばかりか、唯一信仰する宗教でもない。
 新疆のウイグル(維吾爾)、カザフ等の民族の先民はイスラム教を受け入れる過程で、これらの民族が元から持っていた信仰や文化伝統を保持してきたし、また新疆地区のその他の民族や内地の文化を吸収した。いくばくかの元から持っていた宗教観念、儀式、風俗習慣は進化を経て存続しているし、かつ相互に影響し、徐々に鮮明な地域的特徴と民族的特色を持った新疆のイスラム教を形成した。例えば、イスラム教はもともとアッラー以外のいかなる人も物も崇拝することに反対するが、ウイグル(維吾爾)族は今なお麻扎(マザ、墓地?)崇拝があり、これはイスラム教の本土化の典型的な表れである。麻扎(マザ)の上には高い棹を立てたり、のぼりをかけたり、羊の皮をかけるなどの習俗があり、これはシャーマニズム、仏教など多元な宗教の残存である。例えば、乾隆年間に初めて建てられた伊宁(イーニン)市の拜图拉(バトゥラ)モスク、ウルムチの斉陝西大寺などは、建設された時に内地伝統の梁柱構造を採用している。これは全てイスラム教の中国化の具体的表れである。 
 注意しなければならないのは、20世紀70年代末から80年代初め以来、特に冷戦終結後、国際的な宗教的過激主義の思潮の影響を受けて、宗教過激主義が新疆で蔓延し、暴力的なテロ事件が頻発し、新疆社会の安定と人民の生命財産の安全に重大な危害をもたらした。宗教過激主義は、宗教的な外皮をかぶり、宗教的な旗印を打ち立て、「神権政治論」「宗教至上論」「異教徒論」「聖戦論」などを宣揚し、暴力テロを扇動し、民族対立を引き起こした。宗教過激主義はイスラム教などの宗教が唱導する愛国、平和、団結、中道、寛容、善行などの教義とは全く相反するものであり、その本質は反人道的、反社会的、反文明的、反宗教的である。宗教的過激主義は宗教に対する裏切りであり、絶対に宗教過激思想と宗教問題とを結び付けることは出来ないし、絶対に宗教問題を宗教過激主義思想の言い訳にしてはならないし、絶対に宗教問題を口実にして、宗教過激主義思想の責任を免罪してはならない。新疆は国際的な経験を鑑み、本地区での実際と結合し、断固たる措置を取り、法に従って反テロ並びに反過激化の闘争を展開し、暴力テロ勢力のすさまじい気焔に厳重な打撃を与えた。宗教過激主義思想の繁殖蔓延を強力に阻止し、新疆核族人民の安全に対する切実な期待を満足させ、基本的人権を保障し、社会の和諧(調和)と安定を維持した。新疆の反テロ、反過激化の闘争は、人類の正義並びに文明の邪悪や野蛮に対する闘争であり、支持、尊重、理解に値する。世界のある国家や組織、あるいは個人は、反テロと人権の「ダブルスタンダード」を実行し、みだりに責め立て、デタラメを言うのは、完全に人類の公理と基本的な良識に違背しており、これは全ての正義と進歩を愛好する人々が決して受け入れることが出来ないものである。
おわりに

6.新疆は歴代、多種の宗教が併存する地域である(中国務院新聞弁公室『新疆的若干历史问题』)

 中国は古来、多宗教の国であり、組織的、制度的に比較的強固ないくつかの大宗教以外にも、大量の民間信仰が依然として存在している。道教や民間信仰が中国で生まれ育っただけでなく、その他にも国外から流入した。新疆地区もまた歴代多種の宗教が併存し、一つの宗教或いは二つの宗教が主であり、多数の宗教の併存は新疆の宗教構造の歴史的特徴であり、交流融合と共存が新疆宗教関係の主流である。
 新疆での多種の宗教の併存状況の形成と進化とは長い歴史的過程を経てきた。紀元前4世紀以前には、新疆で行われていたのは原始宗教であった。おおよそ紀元前1世紀頃、仏教が新疆に伝来され、4世紀から10世紀にかけて、仏教は全盛期を迎えた。同時期、祆教(ゾロアスター教)は新疆各地で流行した。16世紀末から17世紀初めにかけて、チベット仏教は新疆北部地域で徐々に興隆した。道教は5世紀前後に新疆に入り、主にトルファン、ハミなどの地で盛んであり、清代には新疆の大部分の地区でもう一度復興した。マニ教と景教(ネストリウス派キリスト教)は6世紀に相次いで新疆に伝来した。10世紀から14世紀には、景教は回紇(古代ウィグル)等の民族が信仰し隆盛した。
 9世紀末から10世紀初め、カラハン王朝はイスラム教を受け入れ、10世紀中葉には仏教を信仰していた于闐(ホータン)王国に対し40年以上の宗教戦争を発動し、11世紀初めには于闐(ホータン)を滅亡させ、イスラム教の推進を強制し、この地区で千年以上の歴史を持つ仏教を終結させた。イスラム教の不断の伝播に伴い、ゾロアスター教、マニ教、ネストリウス派キリスト教などの宗教は日ましに衰退した。14世紀中葉、東チャガタイ汗国の支配者たちは、戦争などの強制的手段により、イスラム教を徐々にタリム盆地北縁、トルファン盆地、ハミ一帯に押し広げた。16世紀初めまでに、新疆ではイスラム教が主要な宗教で、多種の宗教が併存するという構造が形成され今日まで続いており、もともと地元の住民が信仰していたゾロアスター教、マニ教、ネストリウス派キリスト教などは次第に消滅していき、仏教と道教が今なお存在している。17世紀初め、オーラート部モンゴル人はチベット仏教を受け入れた。おおよそ18世紀以来、プロテスタント、カトリック、そして東方正教が相次いで新疆に伝来した。
 新疆には現在、イスラム教、仏教、道教、プロテスタント、カトリック、当方正教などの宗教が存在する。モスク、教会、寺院、道観などの宗教施設は2.48万ヶ所、宗教聖職者は2.93万人である。その内訳は、モスク2.44万ヶ所、仏教寺院59ヶ所、道観1ヶ所、プロテスタント教会(集会所)227ヶ所、カトリック教会(集会所)26ヶ所、東方正教会の教会(集会所)3ヶ所が存在する。
 世界の大部分の国と同様、中国は政教分離の原則を遵守している。いかなる宗教も政治に関与したり、政務に関与したりすることは出来ない。宗教を利用して行政、司法、教育、結婚、家族計画などに関与したりすることは出来ない。宗教を利用して正常な社会秩序、労働秩序、生活秩序を妨げたり、宗教を利用して中国共産党と社会主義制度、民族団結と国家の統一に反対することは出来ない。
 新疆は国家の信仰の自由という憲法の原則を全面的に貫徹しており、宗教を信仰する自由、また宗教を信仰しない自由を尊重するだけでなく、宗教信仰と不信仰、この宗教を信じるかあの宗教を信じるか、この教派を信じるかあの教派を信じるかで、大衆の間に紛争が作り出されることを決して許さない。新疆は常に各宗教の一律平等を堅持し、全ての宗教を一視同仁(平等)に扱い、特定の宗教を支持したり、また特定の宗教を差別したりせず、いかなる宗教もその他の宗教を超越する特殊な地位を享有することは出来ない。新疆は常に法律の前での人々の平等を堅持し、宗教を信仰する大衆にも信仰しない大衆にも同等の権利を享有させ、同等の義務を履行させ、どのような人間も、どの民族も、どの宗教を信仰しても、違法行為を行えば、必ず法によって処理される。
 それが所属する社会に適応することは宗教の生存と発展の趨勢であり法則である。中国の宗教の発展の歴史は証明している。ただ中国化の方向を堅持することによってのみ、宗教は初めて中国社会によりよく適応できる。新中国成立の70年の歴史はまた証明している。宗教はただ社会主義社会と適応することによってのみ、健康に発展することができる必ず独立自主、自己管理の原則を堅持し、一切の「脱中国化」の傾向を防止しなければならない。世俗化され現代化された文明的な生活様式を強力に培い提唱しなければならず、愚昧で遅れた古くさいしきたりや陋習は放棄しなければならない。宗教の中国化の歴史伝統を発揚し、社会主義の核心的価値観を用いて導かねばならず、中華文化を中国の各宗教に浸透させ、宗教教義と中華文化を融合させ、積極的にイスラム教を含む各種の宗教を中国化の道に導かねばならない。

5.新疆各民族の文化は中華文化の構成部分である((中国務院新聞弁公室『新疆的若干历史问题』)

 中華民族には5000年以上の文明の発展史があり、各民族は共同で悠久なる中国の歴史と燦爛たる中華文化を創造した。秦漢の雄風、盛唐の気風、康煕乾隆の盛世、これらは各民族が共同で成し遂げた栄光である。多民族多文化は中国の一大特色であり、また祖国発展の重要な原動力である。
 古来、地理的な差異と地域発展の不均衡により、中華文化は豊富な多元状態を呈し、南北、東西の差異が存在した。春秋戦国時代、各々の特色を持った地域文化は大体形成されていた。秦漢以降、歴代を経て、中国の広大な境域には、移住、集合、戦争、和親、交易などを通じて、各民族の文化は不断に交流融合を続け、最終的に気風広大な中華文化が形成された。
 早くも2000年前には、新疆地域は西方へ向かって中華文明が開け放った門戸であり、東西文明の交流と伝播の重要地域であり、ここでは多元な文化が粋を集め、多様な文化が併存した。中原文化と西域文化の長期間の交流と融合は、新疆各民族の文化の発展を推進しただけでなく、多元一体の中華文化の発展を促進した。新疆各民族の文化は最初から中華文化の刻印が打たれている。中華文化は終始、新疆各民族の情感の拠り所であり、魂の落ちつく所であり、精神のふるさとであり、また新疆各民族の文化の発展の原動力の源である。
 中原と西域との経済的文化的交流は先秦時期に開始した。漢代には、漢語(中国語)は西域の官府文書の共通語の一つであり、琵琶、羌笛などの楽器が西域からあるいは西域を通して中原に移入し、中原の農業生産技術、儀礼制度、漢語(中国語)書籍、音楽舞踏などが西域に広く伝播した。高昌回紇は10世紀の後半まで唐代の暦書を使用し続けた。唐代の詩人、岑参(しんじん)の詩句「花門(少数民族)の将軍 胡歌を善くし、叶河の蕃王 漢語を能くす」は、当時の新疆地区の住民が漢語(中国語)を併用しており、文化繁栄の情景の描写である。宋代には、天山山脈南麓の仏教芸術はまだまだ繁栄しており、今なお多くの遺跡が残っている。西遼時期、契丹人はカラハン王朝を征服し、新疆地区と中央アジアを支配したが、典章(制度文物)礼制は多く中原の旧制を踏襲した。元代、多くの畏兀儿(ウィグル)等の少数民族が内地に移住して生活し、漢語(中国語)の使用を学習し、ある者は科挙の試験を受けて各級の官員に採用され、一群の政治家、文学者、芸術家、歴史家、農学家、翻訳家等が頻出し、新疆各民族の文化の発展に寄与した。明清時期、イスラム文化の影響を受け、新疆各民族の文化は域外の文化を吸収または衝突する過程で発展を続けた。近現代以来、辛亥革命、ロシア10月革命、五・四運動、新民主主義革命闘争の影響の下、新疆各民族の文化は現代的に変貌し、各民族の国家アイデンティティと中華文化のアイデンティティは新たな高みに到達した。新中国成立後、新疆各民族の文化は歴史上前例のない大繁栄大発展の時期に入った。歴史は証明している。新疆地区はおよそ多言語が併用され、交流が頻繁な時期には各民族の文化は勃興し、社会が進歩した時期であった。国家に通用する言語と文字の学習が新疆各民族の文化を繁栄発展させることは重要な歴史の経験である。
 新疆各民族の文化は終始、中華文明の沃土に根を下ろした中華文明の不可分の一部である。イスラム文化が新疆に伝わるより前に、ウィグル(維吾爾)文化を含む新疆各民族の文化は既に中華文明の沃土の中で枝葉を茂らせていた。7世紀のアラブ文明体系に淵源するイスラム文化は、9世紀末から10世紀の初め、イスラム教が西域へ伝来して初めて新疆各民族の文化に影響を与え始めた。宗教の文化に対する影響は、自ら願って受け入れる場合もあれば、文化衝突や甚だしきに至っては宗教戦争のような強制的な方法を通す場合もある。新疆では、イスラム教はかなりの程度で後者の方式で入っており、これは仏教が流行していた時代に創造された新疆各民族の文化芸術に重大な破壊をもたらした。イスラム文化の新疆への伝来に対し、新疆各民族の文化は抵抗だけでなく、選択的に吸収して中国化の改造を行い、中華文明に属する特質と方向を改変しなかっただけでなく、中華文化の一部分に属するという客観的事実を改変しなかった。9世紀から10世紀にかけて誕生した英雄叙事詩『マナス』は、キルギスの歌手によって代々伝唱され加工され、国内外に名声を博した文学巨編である。15世紀前後、モンゴル族オイラートの英雄叙事詩『ジャンガル』は新疆地区で徐々に形成され、『マナス』『ケサル王伝』と共に中国少数民族三大著名叙事詩の誉れを受けている。ウィグル(維吾爾)族の文学は優れた作品が頻出し、代表作には『福楽の智慧』『真理の入門』『突厥語大詞典』『十二ムカム』など、すべて中華文化の宝庫中の珍品となり、新疆各民族の中華文化の形成と発展に対する貢献となっている。
 中華文化のアイデンティティは、新疆の各民族文化の繁栄と発展の基礎である。歴史上、おおよそ中央王朝が新疆に対して効果的な統治を行い、社会が安定した時代に、新疆各民族の文化と中原文化の交流融合は円滑になり、経済文化は隆盛繁栄した。おおよそ新疆各民族の文化は中華文化の仁愛を崇め、民本を重んじ、誠信を守り、弁証法的に話し、和合を尚とび、大同を求める思想を継承し、多元な文化を吸収融合、相反するものも包括し、多元一体の特徴は益々顕著になっており、新疆各民族の文化はますます進歩している。新疆各民族の文化が繁栄発展するには、必ず時代と共に進み、開放、包容の理念を樹立し、中華各民族文化との交流融合を堅持し、世界の多民族文化と交流し学び合い、各民族共有のスピリッチュアルホームを構築しなければならない。

4.ウイグル(維吾爾)族は、長期にわたる移住と融合によって形成された(中国務院新聞弁公室『新疆的若干历史问题』)

 ウイグル(維吾爾)族の先民の主体は隋唐時期の回紇(古代ウイグル)であり、モンゴル高原で活動し、烏紇、袁紇、韋紇、回紇など多くの漢訳名称があった。回紇人は突厥の圧迫と奴隷のような酷使に反抗するため、鉄勒諸部族中の仆固、同羅部族などと共に回紇部族同盟を結成した。744年、回紇各部族を統一した首領・骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)は唐朝の冊封を受けた(懐仁可汗)。788年、回紇の支配者は唐朝に上書し、自ら「回紇」と改称することを願った。840年、回紇汗国は黠戛斯(今のキルギスの祖)に攻め破られ、回紇人は内地に移り漢人と融合した一部を除き、その他は3つに分かれた。1つはトルファン盆地と今日のジムサル地区(新疆東北北部)に移り、高昌回紇王国を建てた。1つは河西回廊に移り、当地の諸族と交流融合し、ユーグ族を形成した。1つはパミール以西に移り、後に中央アジア今のカシュガル一帯に分布し、カルルク、ヤグマーなどの部族と共にカラハン王朝を樹立した。回紇人は相次いでトルファン盆地の漢人、タリム盆地の焉耆人、亀茲人、于闐人、疏勒人などを融合し、近代ウイグル(維吾爾)族の主体を構成した。元代、ウイグル(維吾爾)族の先民は漢語(中国語)ではまた畏兀儿と称された。元明時期、新疆各民族は更に融合を進め、モンゴル人とりわけチャガタイ汗国のモンゴル人は基本的に畏兀儿人と一体となり、畏兀儿は新しい血を補充した。1934年、新疆省は政令を発し、維吾爾を漢文(中国文)での規範的な称号として使用することを決定しました。というのも相互の団結を擁護するためであり、初めてUygurという名の本義を精確に表現した。
 歴史上、ウイグル(維吾爾)の祖先は突厥人によって奴隷化され、両者は奴隷化される者と奴隷化する者と関係であった。ウイグル(維吾爾)族の祖先である回紇は初期は突厥の支配を受け、唐朝の軍隊の支持の下、兵を起こして東突厥汗国に反抗し、かつ前後して西突厥汗国、後突厥汗国を攻滅した。西突厥汗国の滅亡後、突厥(テュルク)語族の言語を使用していたいくつかの部族は西方に移動し、その中の一支は長期に渡って転々として小アジアに西遷し、現地の諸民族に溶け込んだ。ウィグル(維吾爾)人は突厥人の後裔ではない。
 近代以来、若干の「汎テュルク主義」分子は西遷して現地の諸民族に溶け込んだ一部の部族がテュルク語族の言語を使用していたことを口実に、テュルク語族の言語を使用する諸民族は皆テュルク人であると言いなした。これは下心があるものである。語族と民族とは2つの異なった概念であり、本質的な区別がある。中国でテュルク語族の言語を使用するものにはウィグル(維吾爾)、カザフ、キルギス、ウズベク、タタール、ユーグ、サラ等の民族があり、彼らは皆各自の歴史と文化の特質があり、決して所謂「テュルク族」の構成部分ではない。

3.新疆の各民族は中華民族の構成要素である(中国務院新聞弁公室『新疆的若干历史问题』)

 中華民族の形成と発展は、中原の各民族の文化と周辺諸民族の文化との不断の往来と交流、融合の歴史的過程である。先秦時期の華夏族群は長期に渡る周囲の族群との多元的な融合を経て、特に春秋戦国時代の500年余りの大激動による合流と融合を経て、秦漢の際に至って、更に進んで周囲の族群と融合して一体となり、中原人口の多数を占める漢族を形成し、これより中国歴史の過程の主体民族となった。魏晋南北朝時期、様々な民族、とりわけ北方少数民族が中原に大移動し、大融合の局面が出現した。13世紀の元朝が設立され、空前の規模の政治的統一の局面は空前の規模の民族移動を推進し、元朝境域内で広範な民族雑居の局面を形成した。中華各民族は長期の発展の中で、最終的には大雑居、小集住という分布特徴を形成した。多民族は中国の一大特色であり、各民族は共同で祖国の素晴らしい山河、広大な境域を共同で開発し、共同で悠久な中国歴史と輝かしい中華文化を創造した。
 新疆地区は古来、中原地区と密接な関係を維持してきた。早くも商代には、中原は西域と玉石の貿易があった。漢代には、張騫は「西域を掘鑿」しシルクロードを打通し、結果、使者は道に相望むや、商旅は途に絶えず(使節が道路を見ると、旅の承認の行き来が絶えることはなかった=往来が繁華であった、という状況を作り出した。) 唐代、「絹馬互市」(*1)(絹馬貿易=農耕民の漢人側が絹・茶など、遊牧民側が馬・羊などとをそれぞれ交換する交易のこと)は繁栄を続け、「天可汗(*2)の大道に参ずれば」内地に直通し、沿道の宿駅は数多く分布し。西域の先民と中原との密接な連携の紐帯となった。于闐(うてん、ホータン)楽、高昌楽、胡旋舞など西域の舞楽も宮廷に深く入り、長安では西域風が流行した。今の新疆庫車(クチャ)の亀茲の楽は中原で名声を博し、隋唐から宋代の宮廷の燕楽の重要な構成部分となった。近代以降、中華民族が危急存亡の生死の分かれ目に直面した際、新疆各族人民は全国の人民と共に、奮起して反抗し、共に国難に赴き、共に感涙の愛国主義の楽曲を創作した。新中国成立以来、新疆各族人民は平等・団結・互助・和諧の新時期に入った。
 新疆は昔から多民族の集住地区である。最も早く新疆地区を開発したのは先秦から秦漢時期に天山南北で生活した塞人(サカ)、月氏人、烏孫人、羌人、亀茲人、焉耆人、于闐人、疏勒人、莎車人、楼蘭人、車師人及び匈奴人、漢人等であった。魏晋南北朝時期の鮮卑、柔然、高車、■(口に厭)噠、吐谷渾、隋唐時期の突厥、吐蕃、回紇(古代ウイグル)、宋遼金時期の契丹、元明清時期のモンゴル、女真、党項(タングート)、カザフ、キルギス、満、シボ、ダフール、回、ウズベク、タタール族等、どの歴史時期にもすべて漢族を含む異なった民族の人口が大量に新疆地区に進出し、異なった生産技術、文化観念、風俗習慣をもたらし、融合と交流の中で社会経済の発展を促進した。彼らは新疆地区の共同開発者である。19世紀末に至って、ウイグル(維吾爾)、漢、カザフ、モンゴル、回、キルギス、満、シボ、タジク、ダフール、ウズベク、タタール、ロシアなど13の主要民族が新疆に定住し、ウイグル(維吾爾)族の人口が多数を占める、多民族集住の構造を形成した。各民族は新疆地区で生まれ育ち、分化し、混じり合い、血は水よりも濃い、禍福を共にする関係を形成した。各民族はみな新疆の開発、建設、防衛の為に重要な貢献を行い、みな新疆の主人である。現在、新疆には56の民族が共に生活する、中国の民族成分が全て揃っている省級行政区の一つである。その中でも、人口100万を超えるのはウィグル(維吾爾)族、漢族、カザフ族そして回族の4つの民族、人口10万を超えるのはキルギス族、モンゴル族の2つの民族である。新疆地域は新疆各民族の故郷であるだけでなく、中華民族の共通の故郷の構成部分である。
 新疆地区の民族関係の変遷は、常に中華各民族の関係の変遷と関連してきた。各民族にはわだかまりや衝突もあれば交流や融合もあり、団結凝縮、共同奮闘前進が常に主流である。新疆各民族を内包する中華民族は、分布上、交錯雑居、経済上の相互依存、文化上のまるごとの吸収、感情面の相互親近は、汝の中に我有り、、我の中に汝有り、誰も誰からも離れられない多元一体の構造を形成し、これは一つの大家族の中の異なった成員の関係である。中華民族の大家族の中で、新疆各民族は兄弟のように相親しみ、事あらば助け合い、禍福が関わり合い、栄辱を共にし、共同で生産活動を行い、外からの侵略を防ぎ、民族分裂に反対し、祖国の統一を擁護する。
 (*1)「絹馬互市」=絹馬貿易。農耕民の漢人側が絹・茶など、遊牧民側が馬・羊などとをそれぞれ交換する交易のこと。
 (*2)天可汗(テングリカガンの漢訳)、遊牧民が唐の太宗(李世民)に贈った称号。遊牧民の最高君主、「世界皇帝」を意味する。

2.新疆は「東トルキスタン」であったことはない(中国務院新聞弁公室『新疆的若干历史问题』)

 突厥は6世紀中葉にアルタイ山に興った遊牧部族であり、552年には柔然汗国を滅ぼし、突厥汗国を建てた。583年、突厥汗国はアルタイ山脈を境に東西の二大勢力に分裂した。630年、唐は派兵して東突厥汗国を滅ぼした。657年、唐は回紇(古代ウイグル)と連合して西突厥汗国を滅ぼし、中央政権は完全に西域を統一した。682年、北部に配置されていた東突厥の部衆が唐に叛き、ひとたび後突厥汗国政権を樹立した。744年、唐朝と漠北の回紇(古代ウイグル)、葛邏禄(カルルク)などが連合し後突厥汗国を平定した。回紇の首領クトゥルグ・ボイラは功績により懐仁可汗に冊封され、漠北に回紇汗国を樹立した。突厥は我が国古代の一遊牧民族であり、また汗国の滅亡に随って8世紀中後期には解体し、そして中央アジア西アジアに西遷する過程で現地の部族と融合し、多くの新らしい民族を形成した。新らしい民族とかつての突厥民族との間には本質的な区別がある。こうして、突厥は我が国北方の歴史舞台から退場した。
 中国の歴史上、新疆は「東トルキスタン」と称されたことはないし、いわゆる「東トルキスタン国家」のようなものが存在したことはない。18世紀前半から19世紀前半にかけて、アルタイ語系の「突厥」(テュルク)語族が西洋によって様々な言語に区分されるに随って、一部の国の学者や作家は頻繁に「トルキスタン」という語を使用した。それは天山山脈以南からアフガニスタン北部、おおよそ新疆南部から中央アジアに至る地域を含め、かつ習慣的にパミール高原を境界として、この一地理区域を「西トルキスタン」と「東トルキスタン」に区分した。19世紀末から20世紀初頭にかけて、「汎テュルク主義」と「汎イスラム主義」の思潮が新疆に流入してから、国内外の分裂主義勢力はこの地理的用語を政治化し、その含意を拡大し、すべてのテュルク語を使用しイスラム教を信仰する民族が連合し、政教一致の「東トルキスタン国家」を形成するよう騒ぎ立てた。いわゆる「東トルキスタン」の議論は、国内外の民族分裂勢力、国外の反中国勢力が中国を分裂させ、中国を解体させる政治的ツール並びに行動綱領となっている。

1.新疆は中国領土の不可分の一部である(中国務院新聞弁公室『新疆的若干历史问题』)

 中国における統一された多民族国家の形成は、社会経済発展の歴史的な必然である。歴史上、中華民族並びにその先民を育てた東アジア大陸には、農耕地区だけでなく、遊牧地区なども存在する。各種の生産生活様式を持った族群の相互交流、移住と集合、衝突と融合は中国における統一された多民族国家の形成と発展を促進した。
 中国歴史上、最も初期の諸王朝、夏、商、周は前後して中原地区で興起し、その周囲の大小の氏族、部族、部族連盟の徐々の融合によって形成された族群は諸夏あるいは華夏と一般に呼ばれている。春秋時代から戦国時代にかけて、華夏族群は同王朝周辺の氏族、部族、部族連盟と交流融合し、徐々に斉・楚・燕・韓・趙・魏・秦など七つの地区を形成し、また別個に東夷・南蛮・西戎・北狄などの周辺諸族と連係した。紀元前221年、秦の始皇帝は初めて統一された封建王朝を樹立した。紀元前202年、漢の高祖、劉邦は再び統一された封建王朝を樹立した。
 漢代から清代の中晩期に至るまで、新疆の天山山脈の南北を含む広大な地域は西域と総称された。漢代以来、新疆地区は正式に中国の版図の一部となった。漢王朝以降、歴代の中原王朝は強い時もあれば弱い時もあり、西域との関係も緊密な時期もあればそうでない時期もあった。中央政権の新疆地区に対する統治はしっかりしていた時もあれば緩い時もあったが、いずれの王朝も西域を国土と見なして当該地区に対する管轄権を行使した。中国の統一された多民族国家の歴史の発展において、新疆の各民族人民は全国人民と共に中国の広大な境域を開拓し、多元一体の中華民族大家庭を創造した。中国多民族の大一統の格局は、新疆の各民族人民を含むすべての中華の子女が共同奮闘して作ったものである。
 前漢初期には、中国北部の遊牧民族である匈奴が西域を支配し、不断に中原を侵犯した。漢の武帝が即位した後、一連の軍事的並びに政治的措置を取って匈奴に反撃した。紀元前138年と紀元前119年に、張騫を二度西域に派遣し、月氏、烏孫などと連合して共同で匈奴に対処した。紀元前127年から紀元前119年の間に、三回出兵して匈奴に重い打撃を与え、内地の西域の要衝に通じる重要経路には前後して武威、張掖、酒泉、敦煌の四郡を設置した。紀元前101年、輪台等の地区で屯田を行い、地方官吏を置いて管理した。紀元前60年、天山山脈東部北麓を支配していた匈奴の呼韓邪単于(こかんやぜんう)が漢に降り、前漢が西域を統一した。同年、西域都護府を設け西域を管轄する軍事機構とした。西暦123年、後漢は西域都護府を西域長吏府と改め、続けて西域を管轄させた。
 三国の曹魏政権は漢の制度を継承し、西域に戊己(ぼき)校尉を置いた。西晋は西域に西域長吏そして戊己校尉を置き軍事政治事務を管轄した。三国両晋時代、北方の匈奴・鮮卑・丁零・烏桓等の民族グループは内地に移動し、最後には漢族と融合した。327年、前re凉政権は初めて郡県制を西域に拡大し、高昌郡(トルファン盆地)を設立した。460年から640年、トルファン盆地を中心として、漢人を主体の住民とした高昌国が設立され、闞(かん)氏、張氏、馬氏、麹(きく)氏と(支配者が)交替した。隋代、中原の長期の割拠状態が終了し、郡県制は新疆地区の範囲に拡大された。突厥、吐谷渾(とよくこん)、党項(タングート)、嘉良夷などの周囲の民族は前後して隋朝に帰附した。唐代には、中央政権による西域の管理は大幅に強化され、前後して安西大都護府そして北庭大都護府が設置され、天山南北を統括した。于闐(ホータン)王国は唐の宗属と自称し、唐の国姓である李を名乗りました。宋代、西域の地方政権と宋朝は朝貢関係を保持した。高昌回鶻王国は中朝(宋)を尊んで舅と為し、西衆の外甥と自称した。カラハン王朝は何度も使節を宋に派遣し朝貢した。元代、北庭都元帥府、宣慰使等を設け、軍事政治事務を管轄し、西域に対する管理を強めた。1251年、西域に行省制を実施した。明代には、中央政権が哈密(ハミ)衛を設立し、西域の事務を管轄する機構とし、併せて嘉峪関と哈密(ハミ)の間に前後して安定、阿端、曲先、罕東、赤斤蒙古、沙州の六衛を設け、西域事務の管理を持ちこたえた。清代、清朝はジュンガルの叛乱を平定し、中国西北境界を確定することが出来た。以後、新疆地区にはなお一層の系統的な統治が実施された。1762年、伊犂(イリ)将軍が設立され、軍事政治一体の軍府体制が実行された。1884年、新疆に省が設立され、かつ「かつての領土が新たに帰属した」の意を取って、西域は「新疆」と改称された。1912年、新疆は積極的に辛亥革命に呼応し、中華民国の一省となった。
 1949年、中華人民共和国が成立し、新疆は平和解放された。1955年、新疆ウイグル(維吾爾)自治区が成立した。中国共産党の指導の下、新疆の各民族人民は全国人民と共同して団結し奮闘し、新疆は歴史上最良の繁栄と発展の時期に入った。
  長い歴史の過程において、中国の境域は分裂していた時期もあったが、統一されていた時期もあり、統一と分裂のサイクルが繰り返され、国家の統一発展が常に主流の方向であった。中原地区に異なった時期にかつて諸侯国や割拠政権が存在したこたがあったように、新疆地区でも地方政権割拠の状況が数多く出現した。しかし、これらの政権割拠の期間が長く、状況が深刻であっても、最終的には再統一に向かった。歴史上、西域には異なった時期に存在した「国」は、都市国家・行国・封国・王国・汗国・王朝・属国・朝貢国などの形態を含め、漢代の西域三十六国はもちろん、更には宋代のカラハン王朝、高昌回鶻王国等、元代のチャガタイ汗国、明代のヤルカンド・ハン国にしろ、みな中国境域内の地方政権の形態を取っており、全て独立国家ではなかった。すなわち地方割拠政権であり、みな濃厚な中国との一体意識を持っているか、自身を中原政権の分枝と見なしているか、中原政権に臣属していた。宋代の著名な歴史文献『突厥語大詞典』は当時の中国を上秦(上China)・中秦(中China)・下秦(下China)の三部分に分け、上秦は北宋、中秦は遼朝、下秦をカシュガル一帯、三位一体で完全な秦と為した。『長春真人西遊記』では漢人は桃花石と呼ばれ、相応して『突厥語大詞典』では、回紇(古代ウイグル)人は塔特・桃花石、直訳すれば中国回紇(古代ウイグル)人となる。カラハン王朝時代の硬貨には、常に桃花石・ボグラ=ハーン、秦(China)の王並びに秦と東方の王等の呼称があり、中国の一部分であることを示している。

新疆の若干の歴史問題(中国務院新聞弁公室『新疆的若干历史问题』)目次 並びに はじめに

以下の文章の翻訳を試みました。

中華人民共和国国務院新聞弁公室『新疆的若干历史问题』(2019年7月)

 グーグルの機械翻訳が使い物にならないので、拙訳を試みました。1章ずつ追加していきます。
目次
はじめに
1.新疆は中国領土の不可分の一部である
2.新疆は従来「東トルキスタン」であったことはない
3.新疆の各民族は中華民族の構成要素である
4.ウイグル(維吾爾)族は長期の移住と融合によって形成された
5.新疆各民族の文化は中華文化の構成要素である
6.新疆は歴代、多種の宗教が併存する地域であった
7.イスラム教はウイグル(維吾爾)族の天生の信仰ではないし唯一の信仰でもない
おわりに
附録:中国歴代紀元簡表


はじめに

 中国の新疆ウイグル(維吾爾)自治区は、中国の西北、ユーラシア大陸の内奥に位置している。モンゴル国、ロシア、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、アフガニスタン、パキスタン、インドの八ヵ国と隣接しており、有名な「シルクロード」はここで古代中国と世界とをつなげ、多くの文明が一堂に会する場所であった。
 中国は統一された多民族国家であり、新疆の各民族は中華民族の血のつながった家族の一員である。長い歴史的発展の過程で、新疆の運命は常に偉大な祖国そして中華民族の命運と密接に関連してきた。しかし、ある時期以来、国内外の敵対勢力、特に民族分裂主義勢力、宗教過激主義勢力、および暴力的テロリズム勢力(以下「3つの勢力」と呼ぶ)が、中国を分裂させ瓦解させる目的を達成するために、下心を持って歴史を歪曲し、是非を混同してきた。彼らは新疆が中国固有の領土であることを抹殺し、新疆が古来、多民族集住、多文化交流、多宗教併存であった等の客観的事実を否定し、新疆を「東トルキスタン」などと言いふらし、新疆「独立」を騒ぎ立て、新疆各民族と中華民族大家庭、新疆の各民族文化と多元一体の中華文化とを引き裂こうと企図している。
 歴史を改竄することはできず、事実を否定することはできない。新疆は中国の真正な領土であり分割できない一部分である。新疆は従来決して「東トルキスタン」であったことはなく、ウイグル(維吾爾)族は長期的な移住と融合とによって形成されたものであり、中華民族の構成要素である。新疆は多文化多宗教の併存した地区であり、新疆各民族の文化は中華文化の懐の中で成長し発展したものである。イスラム教はウイグル(維吾爾)族の最初から信仰した宗教ではないし、また唯一信仰した宗教でもなく、中華文化と融合したイスラム教は中国の肥沃な国土に根ざし健康に発展している。

的場光昭による篠田謙一をアホ読みしたアイヌヘイトの一例 ミトコンドリアDNAハプログループN9bの問題

 ※筆者(熊猫)の文章は青字部分

的場光昭『アイヌ民族って本当にいるの?』(展転社 2014年)62頁
 ところが江戸時代のアイヌのDNAを分析すると、「当たり前ですが現代アイヌの人々とよく似ています。…一つの遺跡で分析しているので少し問題がありますが、N9bというタイプが非常に多くあり、…おそらく本土日本人の影響を受けるのだと思いますが、そういう形になっています。」(『縄文人はどこからきたか?』)
 要約すると、アイヌは北海道の縄文人の子孫ではない。和人に一般的なN9bというDNAが江戸時代のアイヌに入っていた。つまりアイヌと和人はこれ以前に交流していたということです。

 ※傍線は筆者(熊猫)による。

と的場光昭は《近世アイヌにN9bが多いのは本土日本人の影響である》と篠田謙一が言っているように印象づけ、それをもって《アイヌは北海道の縄文人の子孫ではない》と主張するのだが、これは的場による篠田の著作の切り貼りである。傍線部を篠田の原著に当たって見ると、


篠田謙一『縄文人はどこからきたか?』(北の縄文文化を発信する会編『縄文人はどこからきたか?』(2012年)所収の篠田の特別講義)42頁
 近世のアイヌの人々のDNAを見ると、当たり前ですが現代アイヌの人々とよく似ています。一つの遺跡で分析しているので少し問題がありますが、N9bというタイプが非常に多くあり、M7aは3~4%です。Gタイプも当然両方に出ていて、現在になるとDが少し多くなります。おそらく本土日本人の影響を受けるのだと思いますが、そういう形になっています。
 ところが北海道の縄文人を調べるとずいぶん違っています。縄文人にはN9bが非常にたくさんありますが、アイヌの人々に特徴的であったYは出てきません。

 ※傍線・傍点は筆者(熊猫)による。

 篠田の文章を虚心に読む限り、篠田が主張しているのは、現在のアイヌにDが少し多くなるのは、おそらく本土日本人の影響であるということであり、決して的場が言うような《和人に一般的なN9bというDNAが江戸時代のアイヌに入っていた》ということではないことは明白であろう。

 更に篠田は北海道の縄文人には《N9bが非常にたくさんあり》と言っているのであり、《近世以降のアイヌのN9bが和人からもたらされた》というのは全くもって的場による篠田のアホ読みであり、少なくともアイヌ中のN9bを根拠に《アイヌは北海道の縄文人の子孫ではない》などとする的場の主張には全く合理性がない。

 Yについては後述。

小林よしのり「アイヌ民族否定論」批判、日本の民族問題

1 ゴーマン指摘してもかましまへんか 2019年3月10日

2 ネットに散見されるアイヌ民族「否定」論への反論 2019年3月20日 

3 小林よしのり「アイヌ民族否定論」判 現段階での決定版 2019年2月10日

4 小林よしのり「アイヌ民族否定論」批判試作2 2019年1月14日

5  小林よしのり「アイヌ民族否定論」批判試作 2018年12月29日


6   多民族国家・日本 2019年5月1日

7 琉球・沖縄の歴史1 その国家所属問題 2019年3月31日

8 琉球・沖縄の歴史2 その民族所属問題 2019年3月30日 

9 日本人に代わる国籍や民族を超えた「日本在住諸民族」の概念の提唱 2019年2月24日

10 日本の民族問題とカウンターについて 2019年3月20日 

11 民族学言語学ノート 2019年2月25日

12 民族学ノート02 2019年4月29日

Twitter連ツイまとめ集

0 「令和」年号は結局、中国古典が出典であること 2019年4月6日

 『日本単一「民族」論批判』簡要版 2018年12月17日

2 日本単一「民族」論批判① DNAから見た「日本人=縄文以来単一民族」論への批判 2018年11月24日
 なお、まとめられたのは、幸箱亭ミミック(妖怪はげまーき)(@happys_toolbox)さん

3 日本単一「民族」論批判① DNAから見た「日本人=縄文以来単一民族」論への批判 2019年1月5日
 NAVERまとめ版

4 日本単一「民族」論批判② 序論 百田は「縄文以来単一民族」論を主張しているか 2018年12月2日

5 日本単一「民族」論批判③ 民族は遺伝子構成によって決定されない 2018年12月2日

6 日本単一「民族」論批判④ 要旨? 2018年12月8日

7 日本単一民族論批判⑤ 現代日本人における 縄文・弥生比率 2018年12月8日

日本単一民族論批判⑥ 現代日本人における 縄文・弥生比率(続き) 2018年12月15日

9 内藤湖南「応仁の乱について」を勝手に読む~日本文化並びに民族形成についての一試論~ 2018年12月19日

10 百田尚樹『日本国紀』批判① 2018年12月2日

11 百田尚樹『日本国紀』批判② 2018年12月3日

12 百田尚樹『日本国紀』批判③ 2018年12月3日

13 漢文の知識が普及すれば百田のデマは通用しなくなる 2018年12月5日

14 年末「日本人起源雑感」日本人は中国(大陸)の色々な所から来た 2019年1月2日

15 漢族の形成 2019年1月14日

16 日本文化形成における中国文化の役割 2019年1月16日

17 日本国号の中国起源 他、日本古代史関連、特に朝鮮半島との関係 2019年3月30日

18 南京大虐殺関連① 2019年3月21日

19 南京大虐殺関連② 2019年3月25日

アメリカの対中「新冷戦」は結果として中米交替を加速する

この間の連ツイ一覧

1 2018年10月23日分

2 2018年10月31~11月3日

3 2018年11月8日分

4 2018年11月10日分

5 2018年11月17日分

 誤解のないよう言いますが、「中米交替を加速」とは書きましたが、これはGDPなど経済力、科学技術力、国際影響力などの中米交替であって、中国が軍事力でアメリカを圧倒して、これに替わって「世界の警察官」(帝国主義)的態度を取るとは考えていません。

短ツイ並びに未整理ログ、参考リンク

10 日中戦争国際法違反

9 台湾問題

8 東京裁判が国際法違反という言説について

7 慰安婦問題
https://twitter.com/xiongmao53/status/991980935242371072

6 辺野古基地問題
https://twitter.com/xiongmao53/status/990724751323615232

5 日本にとって沖縄とは何か
https://twitter.com/xiongmao53/status/962973041285197824

4 渡来人
https://twitter.com/PachelbelCanonD/status/963373524160163841

3 南京判決
https://twitter.com/nauchan0626/status/967300075025154049

2 南京30万
http://nanjinggenpatsu.com/kyodo.html

1 30万根拠
https://twitter.com/xiongmao53/status/993807711039991808

Twitter過去ログ

27 アメリカの対中「新冷戦」は結果として中米交替を加速する(連ツイ一覧)2018年10月~11月

26 日本単一民族論批判(続) 2018年8月24~25日

25 日本単一民族論批判 2018年8月6日~12日

24 金賢姫とは何者?大韓機事件の真相は? 2018年8月3日

23 「倭」と「日本」 2018年7月29日~

22 岡田英弘を漫然と読む 2018年7月28日~

21 岡田英弘『日本とは何か』を読む 2018年7月17日~

20 朝日記事「縄文人、ラオス・マレーシアにルーツ?」に関連して 2018年7月14日~
 
19 日朝(韓)古代史関連 2018年7月14日~

18 慰安婦問題関連 2018年7月12日~

17 南京大虐殺関係(3) 2018年7月8日~

16 神武紀元関連(2) 2018年7月11日~

15 神武紀元関連(1) 2018年7月6日~

17 縄文・弥生関連考察 2018年6月8~16日

13 日本古代史関連、特に朝鮮半島との関係 2018年5月23~27日

12 南京大虐殺関係(2) 2018年5月5日~13日

11 南京大虐殺関係(1) 2018年4月29日~5月5日

10 東アジア人の遺伝的一体性についての考察 2018年4月9~21日

9 中国文化が朝鮮半島を経由して伝わった問題等 2018年4月7日~8日

8 教育勅語の歴史観=皇国史観の批判 2018年4月3日~7日

7 日本文化形成における中国文化の役割 2018年3月18日~4月1日

6 イスラエル建国の正当性とユダヤ「民族」の虚妄性についての考察 2018年3月16日~21日
 
5 内藤湖南『応仁の乱について』を勝手に読む 2018年3月5日~14日
 
4 琉球・沖縄歴史、米軍基地問題連続ツイート(2) 2018年2月21日~3月1日
 
3 琉球・沖縄歴史、米軍基地問題連続ツイート(1) 2018年2月16日~20日。

2 ナウちゃんの所で琉日中の関係についてツイートした分。2018年2月15日。
 
1 筆者の民族史的観点からの日本史メモ 2018年2月11日~12日。
 

東シナ海横断航海の危険性に対する疑問

八幡和郎氏の所説への疑問 意外と近い中国と日本・琉球

 筆者は先(*1)に、言語学者・橋本萬太郎氏の発言を引用して、長江下流域の中国語方言と沖縄の言葉との発音組織の共通性について言及し、沖縄の言葉(琉球語)が大和語(日本語)と長江下流域の言語との混合言語である可能性について言及した(*2)。
 しかし、それに対し、ことさら浙江省・江蘇省(長江下流域)から東シナ海を横切る航海の危険性を指摘する言説もある。それは、元通産官僚という徳島文理大教授・八幡和郎氏であるが、ここで少し氏の発言を引用してみる。
東シナ海の風波は高い。しかも、風向きがかわる。だから、江南地方から沖縄、鹿児島、五島列島などに簡単に航海できるものではない。」(*3)
中国人の地理観として琉球は福建省の先にあった。浙江省や江蘇省から東シナ海を横切る航海は常に危険が高いものだったからで、福建省からが安全だった。」(*4)
 一方、考古学者・森浩一氏は戦争中の話として、中国のジャンク船で寧波(浙江省)沖を船出して、20時間ほどで唐津に到着した人の経験を紹介し、長句下流域と九州との「意外な近さ」について言及している。もとより、森浩一氏は「江南から二〇時間かけて来られるといっても、海流とか風とか、季節によるクセとか、長年の経験と技術で熟知している連中だから来られる」と断っている(*5)が、筆者は伝聞ながら実体験に基づいた話という点で森浩一氏の方に軍配を上げたい。
 確かに、東シナ海横断経路を取った遣唐使の難船率などを見ると、八幡氏の所説に肯きたくなるが、これはやはり航海術の未熟さによるものであろう。先に挙げた長江下流域と沖縄の言葉との共通性などを考えれば、東シナ海を横切っての航海は決してまれではなかったのではないか。
 どうも、八幡和郎氏は、その著作(*4)から見ても、政略的に沖縄と中国(特に長江下流域)との関係を縁遠いものに印象づけようとしている感がある。思うに、氏は橋本萬太郎氏の言説を知っていて、それを否定するために「危険」説を唱えているのではないだろうか。
 それによって結局、「中国文明は韓国"素通り"で日本にやってきた」(*3)と主張しながら、稲作などが長江下流域から日本列島に直接伝播した可能性を否定してしまっているのだが、この問題については、また稿を改めることにする。

(*1) 拙文『沖縄は中国と最も縁遠い存在なのか』(2018年1月)
(*2) なお引用した橋本氏の発言は、同氏編『民族の世界史5 漢民族と中国社会』山川出版社 1983年終章『座談会「現代の漢民族」』に載せられたもの。なお、橋本氏は『現代博言学』(大修館書店 1981年)において、「沖縄の言葉(琉球語)が大和語(日本語)と長江下流域の言語との混合言語である可能性」について踏み込んで言及されているようである。
(*3) 八幡和郎『中国文明は韓国"素通り"で日本にやってきた』(『アゴラ』2018年1月19日)
(*4) 同『ウーマン村本が知らない沖縄と中国の本当の関係』(『アゴラ』2018年1月17日)
(*5) 森浩一編『倭人伝を読む』(中公新書 1982年)

漢字・漢文への対応の違いが日・韓語を別言語にした

 韓国・金容雲教授『日本語の正体』を読んで

 韓国・金容雲教授『日本語の正体』(*1)によると、朝鮮韓国語(以下、金教授に従い「韓国語」と略称する)と日本語とは元々は同源の言葉であったが、その後の漢字・漢文に対する両者の対応の違いから、現在のように「完全に異なる」言葉になったという。両者は印欧語の研究から始まった西欧の比較言語学では「とうてい御しえない、特殊な関係」であり、「なまじ近代言語学が日韓語を遠いものに思わせている」という。
 少し、金容雲教授の所説を紹介すると、現在の韓国語は新羅語がベースとなっており、その新羅語と百済語とは方言程度の違いしかない言語であり、一方、古代大和朝廷(倭国)は百済の列島における「分国」(王族を首領とした植民国家)であり、その宮廷言語は百済語であったという。
 多くの日本の読者は、「大和朝廷は百済の分国」という主張に抵抗を覚えるだろうが、筆者は白村江の戦いにおける大和朝廷の異常なまでの百済に対する肩入れ、その後の亡命百済人の重用などを見ると、あながち「トンデモ」と言えず、十分あり得たことではないかと思う。
 金教授の所説に戻るが、白村江の戦いの後、新羅は朝鮮半島を統一し、漢化政策を推し進める。漢文を中国式に直読し、漢字の読みも音読み(それも日本と違って一種類)だけとし、人名・地名などの固有名詞までも唐風に改めた。多くの漢語が流入し、その発音をそのまま採用した結果、音韻範囲は膨れあがり(ちなみに今日の韓国語では2000以上の音韻を用いているという)、現在につながる韓国語が形成されていった。
 一方、列島は地理的条件もあり、半島のような漢文直読も定着せず、むしろ漢文訓読を採用し、漢字も音読み(それも呉音・漢音等複数併存)と共に訓読みを行い、大量の漢語の流入に際しても、従来の音韻(日本語の音韻は70程度)を変えずに対応した。これが現在につながる日本語となる。
 なお、石川九楊氏(*2)を元に、金教授の所説を補足すれば、列島では漢字・漢文の訓読の過程で、多数の新生和語が形成されたことを付け加えねばならないだろう。つまり、当時の大陸と列島の文明差は圧倒的であり、流入した漢語・漢字のすべてに対応する倭語(百済語)が必ずしも存在するわけではなかった。結果、訓読みに際して、従来の倭語に新たな意味が付与されたり、倭語(百済語)だけでは足りない場合は、当時、列島に行われていた新羅語その他の語彙も採用されたのである。
 思うに、現在の韓国語・日本語の関係(文法の共通性、語彙・音韻の相当な懸隔)は、基本的には金教授の所説によって説明できると思う。列島も半島も、言語的には余り変わらない地域であったのが、漢字・漢文への対応の違いによって、現在に至る日本語・韓国語が形成されたのであろう。
 なお、金教授は韓国語・日本語の同源性を強調されたいようだが、石川九楊氏的には、むしろ日韓語共に(ベトナム語もそうだが)漢文・漢字によって形成された言語であることを強調すべきだろう。このような漢文・漢字の介入によって形成された日韓語は、共にそれ以前の新羅語、倭語(百済語)とは、似ても似つかぬ言語であったことだろう。
 もっとも、ついでに補足すれば、現代中国語もまた漢文・漢字によって形成された言語なのであり、古典漢文との間には相当な違いがあるのだが。

(*1) 金容雲『日本語の正体』(三五館 2009年)
(*2) 石川九楊『日本語とはどういう言語か』(中央公論新社 2006年)

日本国号は中国起源という問題に関連して

 先日の文章(『日本形成における中国文明の働き』)で、「日本」という名称は、中国伝来もしくは西方から列島に渡来した中国人の考え出したものではないかと書いた。そもそも、日本列島を「日の本」(太陽の下=東方)と認識するのは、西方大陸の中国人であり、列島から見れば、「日の本」は太平洋であり、根っからの列島先住民なら、このような認識は持たないだろう。
 これはむろん、筆者の独創ではなく、若い頃にこのような考え方に接したことが、私の本格的な歴史研究のきっかけとなっていることは否定できない。正直言うと、今までこのような考え方に100%の確信を持っていたわけではないが、最近、岡田英弘の著作(*1)を読んで、筆者は西方から列島に渡来した中国人(それも漢族)の発想と確信するに至ったのである。
 もちろん、岡田がこのような考えを述べているわけではないが、彼の関連著作には繰り返し、古代、日本列島には多数の「華僑」(中国人)が渡来したこと、彼らが日本語始め日本文化を形成したこと。そして、日本国号国家、「日本民族というアイデンティティ」(当時においては、あくまでアイデンティティであり、実体ではないが)の実質的形成者であることが述べられている。
 筆者は、正直、内藤湖南などの影響を受けて、中国文明の「にがり」作用によって、日本が形成されたとは考えていたが、それを具体的に伝えたのが古代においては渡来中国人であるという認識は余り持っていなかったのである。

 ところで、「日本」が「日の本」(東方)ならば、「朝鮮」は「朝が鮮やか」であり、これも東方である。「朝鮮」もまた、「日本」と同じく、半島先住民の発想ではなく、西方大陸から渡来した中国人の発想であろう。古代朝鮮半島についても、おそらく日本列島と同じ様な状況があったのであり、これについては、拙文(『日本人はどこから来たか?』)を参照していただきたい。

 さて、拙文に対し、古くからのネット上の知人である劉公嗣氏からいただいたコメントによると、「平安時代の『日本書紀』の講読では、日本は中国(唐)からの他称との説が主流だった」そうであるが、そう言えば、網野善彦が次のようなことを書いていた。
 この国号については、平安時代から疑問が発せられており、承平六(九三六)年の『日本書紀』の講義(『日本書紀私記』)において、参議紀淑光が「倭国」を「日本」といった理由を質問したのに対し、講師は『隋書』東夷伝の「日出づる処の天子」を引いて、日の出るところの意と「日本」の説明をしたところ、淑光はふたたび質問し、たしかに「倭国」は大唐の東にあり、日の出る方角にあるが、この国にいて見ると、太陽は国の中からは出ないではないか。それなのになぜ「日出づる国」というのかと尋ねている。これに対し、講師は、唐から見て日の出る東の方角だから「日本」というのだと答えている(中略)
 延喜四(九〇四)年の講義のさいにも、「いま日本といっているのは、唐朝が名付けたのか、わが国が自ら称したのか」という質問が出たのに対し、その時の講師は「唐から名づけたのだ」と明言している(『釈日本紀』)。実際『史記正義』という大陸側の書には、則天武后が「倭国を改めて日本国」としたとあり、そうした見方も早くからあったのである。(*2)
 もとより、網野が言うまでもなく則天武后云々は誤りであるにしても、「日本」国号は「唐人より呼候(よびそうろう)」ものであること(中国大陸側に視点を置いていること)は否定できないであろう。

 ただ、筆者のあくまでつたない漢文知識から言っていることであるが、「日本」とか「朝鮮」と言うのは,何か漢文としては変則的なような気がするのであるが、この辺については専門家のご教示をいただきたいところである。ただ、変則的だとしても、これは「和臭」(日本人の漢文の癖)とか言ったものではなく、渡来漢人の多様性(地方性、その他あらゆる意味での)によるものだと筆者は考えている。どうも、「和臭」も含めて、「和」というものは「漢」が作ったのではないかと考える昨今である。

 (*1)岡田英弘『日本史の誕生 千三百年前の外圧が日本を作った』(弓立社 1994年10月30日)
 (*2)網野善彦『「日本」とは何か』 『網野善彦著作集第十七巻「日本」論』(岩波書店 2008年5月23日)P117~118。もとより、『日本の歴史00巻「日本」とは何か』(講談社 2000年10月)初出の文。

沖縄は中国と最も縁遠い存在なのか

 弥生時代以降、日本列島には「弥生人」という中国大陸や朝鮮半島の住民と共通性の高い人間集団が移住して来た結果、本土の住民(いわゆる大和族)には、先住の縄文人の特質は少なくなり、そういった移住の波の及ばなかったアイヌと沖縄に縄文人の特質が残っているという説がある。
 しかし、この説が正しいとしても、あくまで本土の人間との比較の話であって、アイヌや沖縄人が縄文人の生き残りという話にはならない。アイヌや沖縄に、本土が受けたような移住の波が及ばなかったとしても、本土とは違った大陸からの影響は十分あったはずである。
 実際、アイヌの形成に当たっては、北方オホーツク文化の影響が指摘されているし、沖縄人にしても、その言語は確かに日本語の方言(大和語と同系語)とされるものの、前(*1)にも紹介したが、言語学者による次のような指摘がある。
 「言語の方からみたら――とくに発音の組織の面に限っていうと、沖縄のことばは、日本語じゃありませんね。日本全国の方言をみてみると、あそこだけしかないものが、あるわけです。しかも、その特徴は全部、大陸の、なかでも沖縄と相むかいになった長江(揚子江)下流域の言語だけと共有しているわけなんですよ。」(*2)
 もちろん、このような沖縄のことばの特徴は、いつ頃形成されたか分からない。しかし、日本語と同じ文法組織と長江下流域の言語と共通の発音組織という二重性は、沖縄語のピジン性を示唆するものである。
 なお、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住し、この時期に言語が日本語に近いものに変わったのではないかと指摘する向きもあるが、当然、その前から沖縄に「先住民」はいたのであり、彼らがどのような言語を話していたかは分からない。しかし、上に挙げた沖縄語の特徴から考えて、もともと「中国語」(厳密には長江下流域で話されていた言語)が話されていた地域に、日本語系集団が侵攻・支配した結果、言語混合が起こり、現在のような琉球語が形成された可能性も考えられるのである。
 というか、そもそも沖縄諸島に移住したのは決して日本語系集団だけではなく、対岸の中国長江下流域からの移住もあったのではなかろうか。当時の状況(例えば宋船の列島への頻繁な渡来など)を考えると、日本側のみの一方的な移住をのみ想定するのは、むしろ不自然である。こういった移民間の争闘(*3)の中で、日本語系勢力が主導権を握ったものの、中国語系勢力の数も少なくなく(むしろ発音組織に中国語が残ったことを考えれば、こっちの方がかなり多かったことが考えられる)、結果、文法・語彙は日本語、発音組織に長江下流域の方言を残す琉球語が成立したとは考えられないだろうか。
 ちなみに、琉球の国家形成を「倭寇」(日本の海賊と言うより、日朝中混合の無国籍海上勢力)の活動の産物であると考える研究もあるようだが(*4)、ならば、中国王朝による「琉球王国」冊封には、「海賊」勢力の「招安」(公認・帰順)という側面があったともいえるし、そもそも上の言語混合も「倭寇」内の「日中共闘」が一因になっているのかもしれない(笑)。
 
 なお、筆者がこの一文を書いたのは、かのウーマン村本氏を批判した『ウーマン村本が知らない沖縄と中国の本当の関係』(八幡 和郎)などという記事を目にしたからであるが、その中で、八幡は「本土では中国人や韓国人と共通性が高い弥生人が優勢だ。しかし、弥生人がやってくる前から日本列島に住んでいた縄文人らしい特質をもつ人たちは、北海道や東北と南九州や南西諸島に多い。そういう意味では、沖縄の人は日本人のなかでもっとも中国人と縁遠い存在だ。」と述べる。
 しかし、上の長江流域との言語共通性という要素を考えれば、確かに沖縄人が本土人より縄文人らしい特質を保持していたとしても、「中国人ともっとも縁遠い存在」と述べるのは、当たっていないと思う。縄文人の性質と中国人との親縁性は、決して矛盾するものではない。
 また、当時の東アジアの状況や、琉球語に残された性質などを考えた時、八幡の言うような「民衆レベルでの交流は圧倒的に日本、とくに南九州との方が分厚く、人の行き来も中国などとは比較にならないほど頻繁」などと言ったことが果たして言えるのだろうか。
 沖縄は日本や中国の影響の中で、独自の文化を形成したのであって、「薩摩入り」や「琉球処分」の歴史を当然視して、安直に「日本の一部」などと主張するのは、「中国の属国」と同レベルの"妄言"であろう。少なくとも、沖縄は大和ではない。

(*1) 拙文『日本民族の形成(2) 日本民族の構成要素 琉球は大和ではない
(*2) 橋本萬太郎編『民族の世界史5 漢民族と中国社会』山川出版社 1983年終章『座談会「現代の漢民族」』での橋本萬太郎の発言。

「ブラック・アテナ」再び

 マーティン・バナール『ブラック・アテネ』をググってみると、同書を「トンデモ」本と評するものが少なからずあった。正直、これらの記事(多くはブログ)を詳細に読んだわけではないし、ましてや『ブラック・アテネ』自体を読んでいない筆者には、『ブラック・アテネ』がトンデモなのか、「トンデモ」と評して言う方がトンデモなのか、判断することはできない。
 しかし、本当にトンデモなら、そもそも論争など起こりえないだろうし、既に「古代ギリシア文化におけるオリエントの影響の大きさを重視すべきだ」という見解が主流になりつつあるらしい。思うに、『ブラック・アテナ』が反発を受けた基本的な原因は、今まで皆が知っていながら、あえて言うことがなかった「高貴なお方」の「出生の秘密」を公言したことにあるのではないか。
 そもそも、「オリエントの影響」などは距離や年代から考えても、ある意味、自明であり、実際、40年前の筆者の高校世界史教科書にも、今読み返してみると、「ヨーロッパの古代文化は、オリエントの影響を受けて、地中海東部からひらけた。」(*1)と書いてあったのだが、世界史の教師はそんな事にはかまわず、ギリシア文明とオリエント文明とが全く別物であり、「自由で民主的なヨーロッパ」と「専制的なアジア」という二項対立で、ペルシア戦争などを説明し、筆者自身、それで納得していたように記憶している。
 このような傾向は今なお一般的であり、今たまたま手元にある世界史参考書(*2)などは、「オリエントの影響」などについては、全く触れていない。専門家に言わせれば、オリエントの影響など、「わざわざ言うまでもこと」なのかもしれない。しかし、これこそバナールなどが批判しているように「その(バナールの主張する)ようなことは、もうとっくに分かっている」(*3)こととして、実質上、否定してしまうことなのではないだろうか。
 古代ギリシア文明が、ギリシア人が「ヨーロッパ」で自発的に形成したものではなく、先行オリエント文明の派生文明であることを認めるならば、実際、色々と歴史の枠組みは変わっていくはずである。
 まず、古代ギリシアをヨーロッパとして、オリエント(アジア・アフリカ)と異質なものとして扱ってきた従来の歴史観は是正されなければならない。どちらも、オリエントという名称を変更するとしても、同地域の文明として、「西アジア」でなくても、「西ユーラシア」(北アフリカ含む)の文明として再編されるべきである。そもそも、当時において文明圏としての「ヨーロッパ」など未だ成立していない。「地中海世界」などと称して、ギリシア・ローマをオリエント(メソポタミア・エジプト含む)と区別する必然性もないだろう。そもそも、「地中海文明」の直接継承者はイスラム勢力ではないのか。
 おそらく、マーティン・バナールの大部の著作を読むことは、専門家でもばければ、余り有効な時間の使い方ではないだろう。しかし、彼の提起した基本テーゼをふまえながら、新たな世界史の枠組みを考えていくことは有効であると思う。

 (*1) 村川堅太郎等著『詳説世界史(改訂版)』山川出版社1977年。
 (*2) 早稲田大学教授・福井重雄著『基礎からよくわかる世界史B』旺文社 1994年。
 (*3) マーティン・バナール『ブラック・アテナ 第1巻:古代ギリシャの捏造』日本語版刊行記念シンポジウムに寄せて

日本にこそ必要な「ブラック・アテナ」論争

 マーティン・バナールが『ブラック・アテナ』という本を書いて、古代ギリシア文明の「アフロ・アジア(アフリカ・アジア)的ルーツ」を主張したことが、欧米では論争を引き起こしているという。本人の言葉を借りると、「古典学、古代史以外の分野の学者は、私の考えのどこがおかしいのか理解しかねるとしている。」(*1)というが、確かに極東に住んでいる我々からすると、古代ギリシア文明が先行オリエント文明(エジプト・メソポタミア含む)からの派生文明であることは自明のことのように思えるが、古代ギリシアをヨーロッパ文明の源流と主張してきた欧米では、ギリシア文明の自発性を否定されたことに対する反発が根強いのだろう。
 しかし、アルファベットの起源はフェニキア文字であり、それはエジプトのヒエログリフを表音化、簡略化したものであるし、ヨーロッパの農耕にしたところで、当然,先行オリエント地域から伝播したものであることは間違いないだろう。別にギリシア語が印欧語族に属することは、エジプトや西アジアなど(多くは非印欧語族)からの文化借用を否定する根拠とはならない。
 ちなみに、バナールによると、「それまでにベトナムと日本の歴史について学んでいた」ことが、「ギリシアの歴史モデルを構成する上で大きな助けとなった。」(*2)らしいが、確かにベトナムも日本も中国文明からの派生文明であり、中国語と言語を異にしながらも、中国語からの借用語の多さと言い、中国文明の影響は明白である。
 それを言うと、欧米でバナールの所説に噴出したような反発が、ここ日本でも存在する。ギリシア語と古代エジプト語の所属語族が違うように、中国語と日本語の所属語族が違うことをもって、中国文明の影響を否定しようとする論者は日本でも存在するし、たとえ中国文明の影響は否定しないまでも、日本文明の自発性だけは、どうしても保持しようとする論者の方がむしろ多いだろう。
 むしろ、バナールの主張が論争を巻き起こすだけ、欧米社会の方が日本社会より成熟しているというべきなのかもしれない。そもそも、日本の既存学界には(内藤湖南以来)一人のバナールも出現していないのである。

 (*1)マーティン・バナール『ブラック・アテナ 第1巻:古代ギリシャの捏造』日本語版刊行記念シンポジウムに寄せて
 (*2) マーティン・バナール 片岡幸彦訳『古代ギリシア文明のアフロ・アジア的ルーツ――古代ギリシアの捏造 1785―1985』(新評論 2007年)の「序文および謝辞」。

サイト「子欲居的東アジア世界」の基本テーゼ(6)

6 古代ギリシア・ローマは西アジアの派生文明である
 ヨーロッパ文明のルーツとされるギリシア文明が西アジア文明からの派生文明であることは間違いない。古代ギリシアしいてはローマも、古代西アジア世界史の一部として扱うべきである。実際、ギリシアを統一したアレキサンダー大王がペルシャ帝国征服に乗り出したこと、ローマ帝国の重点が東部分にあったことなどを考えれば、事は明白であると思う。
 ギリシア・ローマをもって「地中海文明」と称する向きもあるが、それならギリシア・ローマ文明の実質的後継者は、西アジア文明をも継承したイスラムである。地中海世界の大部分の地域のイスラム化は、実質上、古代ローマ的社会の社会変革という文脈で見るべきである。一方、ゲルマン民族に征服された西ヨーロッパで行われたのは、古代ローマ的社会の発展的変革ではなく破壊であり、西欧はいまだキリスト教の残る後進地帯となった。そこに行われたのがゲルマン土俗的キリスト教とも言うべきカトリックである。
 この時代、西洋史の表舞台はイスラム圏であり、それに東ローマが続く。西欧は「遅れた辺境」であり、西欧が「ヨーロッパ世界」としての実質を持つのは、やっと近代の入り口においてである。 しかし、歴史の弁証法と言うべきか、その「遅れ」が次の段階では優位に働いて、西欧ではいち早く資本主義が発達し、その後の世界史が展開する。

サイト「子欲居的東アジア世界」の基本テーゼ(5)

5 日本語は漢語・漢文の訓読によって形成された
 日本語は比較言語学上、「系統不明の孤立語」とされ、日本文化の特殊性、自発性を示すものと考えられることが多かった。しかし、種々の状況から考えて、日本語は7世紀の日本国号国家成立と前後して、漢語・漢文の訓読作業によって形成されていったという説に賛同せざるを得ない。
 漢語・漢文を当時の大和支配層の言語(おそらく百済語と同系で、高句麗・扶余とつながるアルタイ系言語)の統辞構造に随って(動詞をひっくり返して)読み、漢語の翻訳語(訓読み)として、列島に行われていた種々の北方系、南方系言語から語彙を選び出して当てはめていく作業により、今につながる日本語は形成されていった。
 これは、日本国号国家成立時、たとえ畿内に限られるとは言え、日本国に結集した諸民族の共通語として考案されていったものであり、朝鮮語も、ほぼ同時期、同じような作業によって形成されていったものと考えられる。これによって日本語と朝鮮語が統辞構造で共通しながら、語彙の面でほとんど一致しない原因が説明されると考える。
 つまり、石川九楊などが主張するように、日本語は基本的に中国語(漢語・漢文)の影響(それに対する異和・反発も含めて)によって形成されたものなのである。
 なお、日本民族は大和・琉球・アイヌの三者で形成されるという主張に従えば、国内的には「大和語」とか「共通語」とでも称されるべきかもしれない。

日本民族の形成(3) 日本民族の構成要素 琉球は大和ではない

 新年早々、お笑い芸人・ウーマン村本が、沖縄について「もともと中国から取ったんでしょ」と発言したとかいうことで、「小学生以下の知識」とか色々とたたかれているらしい。ちなみに、本人自身は、「(琉球王国が)明と冊封関係を結んでおり、これは琉球が明の従属国となることをいいます」とのネット記事を「拡大解釈」したものと「反省のツィート」をしている。
 しかし、ウーマン村本が引用したように、沖縄は明治になるまで、琉球王国として中国王朝と冊封関係を結ぶ独立国だったのである。その独立国だった琉球王国を、当事者の意志に関係なく、「琉球藩」を経て「沖縄県」として、日本に併合してしまった(「琉球処分」)ことを、むしろたたいている当の人間たちが、どれほど知っているのだろうか。
 アイヌが「日本人」から排除されるのに対し、「日本人」との同一性が強調されるのが、琉球民族である。前述の戴國輝は、「日本人のほとんどが革新系をふくめて、沖縄復帰でなぜ琉球民族を大和民族の一分支と位置づけ、両者の類似性ばかり強調して、強引に大和民族に帰一させたがるのか、僕にはわからなかった」、「ああいう強引な大和民族国家論というものにたいして、疑念がつきなかった」と述べている。念のために補足すれば、戴國輝は「僕は中国人として沖縄がかつて、(日本・中国への)両属関係をもったということで、強引に琉球というのは、中華帝国の一部であると主張し、琉球独立論を唱えるつもりは全然ない。」とも述べており、「琉球民族は民族として存在し、また琉球王国も歴史的に存在したのは史実でしょう。それをふまえて日本民族、日本国家の統合を主張しても、べつにおかしくない」と述べている(*6)。
 筆者も基本的に同意見であり、上にも述べたように日本民族は大和・琉球・アイヌの三者で構成されると考える。
 沖縄人は、たとえ「聞いていて分からない」と言っても「日本語の方言」を話す日本人だと言う向きもある(「日琉同祖」)一方、琉球語は「日本語と同系(同語族)であるが別言語である」(*7) と考える向きもある。しかし、その言語が「方言」か「外国語」であるかを決めるのは、当事者の意識の問題なのである。中国語の方言のように、聞いていても全く分からない言語どうしでも、同じ中国語と意識される場合もあれば、聞いていて十分、意志を疎通し合える関係の言語同士であっても、別言語とされている例は世界的にはいくらでもある。
 琉球語を単なる大和語の一支と見る考え方は慎むべきであろう。琉球民族は形成に当たって、確かに平仮名に代表される大和文化の影響を受けたのであるが、それと共に深く中国文化の影響を受け、大和とはまた違った文化的統一体が形成されたのであり、やはり中国文化との関連において、大和と対等の存在と考えるべきだろう。共に中国文明の伝播によって、一定地域の種々の要素が凝集されて、国家・民族・文化の形成を見たのである。

 はっきり言って、日本政府筋などは琉球人が大和とは違った文化的伝統を持った人々であることを重々承知の上、「同じ日本人だ」と言い繕って、基地負担を押しつけるという実質差別を行っているのではないのか。少なくとも、あのような基地負担は、本土とは違った歴史的文化的背景のある沖縄にしか押しつけられないことである。一昨年の本土警官による「シナ人」「土人」発言を見るに付け、実は政府筋の人間は、琉球人を「中国の少数民族」としか見ていないのではないかと思ったりする。
 そもそも、明治初年の日清の力関係、戦後のアメリカの動向(*8)によっては、沖縄が今頃、中国・琉球民族自治区になっていても、おかしくないのである。こんなことを言えば、あれこれ言う人が出てきそうだが、少なくとも、日本に付くか、中国に付くか、独立するかの決定権は琉球人が持っているのである。だいたい、米軍や自衛隊の基地などを撤去して、観光施設などを作って中国人観光客などを誘致した方が、補助金に頼るより、沖縄の経済は発展するのではないだろうか。
 それにしても、昨今の米軍基地問題と、それに対する日本政府の対応を見るに付け、沖縄の人々の間に「本土の人間(ヤマトンチュ)」とは違ったアイデンティティを求める声が出てくるのは必定のように思えるし、こうなっても沖縄の人々を日本に引き留めるためには、彼らを大和族とは違った文化的伝統を持った存在として(大和族とは対等の一つの民族として)承認し、その地位を保障していくほかはない。
 そして、「地位保障」の実質的な内容は、沖縄の基地問題の解決=実質、日本からの大部分の在日米軍基地の撤去しかないと思う。(トランプさんの望むところかもしれないが。沖縄の海兵隊など、日本政府が引き留めなかったら、遠からずアメリカの都合で出て行くのではなかろうか。)
 岩波文庫の問題で言えば、『おもろさうし』のような琉球の古典を『ユーカラ』とは違い、「黄」(日本古典文学)に分類している。よろしく、『ユーカラ』も、「黄」に分類するか、共に日本少数民族文学として、新しい色の分類を作るべきである。
 以上、政論のようになってしまったが、事の問題上、一定やむを得ないと思う。
(*1) (*5) 橋本萬太郎編『民族の世界史5 漢民族と中国社会』(山川出版社 1983年)終章、座談会「現代の漢民族」より。
(*2) 網野善彦『東国と西国、華北と華南』(1992年)、『網野善彦著作集第十五巻』(岩波書店 2007年)所収。なお、網野は同書において、上の戴國輝の発言を批判的に紹介している。
(*3) 網野善彦『「日本」とは何か』(2000年)、『網野善彦著作集第十七巻』(岩波書店 2008年)所収。
(*4) 拙文『日本国号は中国起源という問題に関連して
(*6) ウィキペディア『児玉作左衛門』
(*7) 筆者は、これを「日本語族」ではなく、「大和・琉球語族」と呼ぶべきだと思う。
 なお、言語学者・橋本萬太郎は「言語の方からみたら――とくに発音の組織の面に限っていうと、沖縄のことばは、日本語じゃありませんね。日本全国の方言をみてみると、あそこだけしかないものが、あるわけです。しかも、その特徴は全部、大陸の、なかでも沖縄と相むかいになった長江(揚子江)下流域の言語だけと共有しているわけなんですよ。」(橋本萬太郎編『民族の世界史5 漢民族と中国社会』山川出版社 1983年終章『座談会「現代の漢民族」』)と述べている。
 琉球語、しいては琉球民族の形成について、有益な示唆を与える指摘であると考える。
(*8) 筆者の友人の中華人民共和国出身者は、「アメリカが沖縄を日本に返還したのは、中国で共産党が蒋介石に勝ったからであり、もし蒋介石が勝っていたら、中国に返しただろう。」という見方を披露したことがある。なお、その友人は別に中国による沖縄の領有を主張しているわけではない。

サイト「子欲居的東アジア世界」の基本テーゼ(4)

4 日本列島は古来からの多民族地域である
 日本列島(現日本国の領域)は古来からの多民族地域であり、近代の直前においては、大和・琉球・アイヌの三族が形成されており、この状況は現在も基本的に変わっていない。日本民族とは大和族だけを指すのではなく、琉球・アイヌなどを含んだ列島諸民族の総称とするべきである。
 古くから統一され形成されていたと考えられてきた大和族にしても、「関東方言・関西方言・北奥方言・九州鹿児島方言など、それぞれヨーロッパへ持って行ったら別々の国語だ。」(金田一春彦『日本語新版(上)』(岩波書店 1988年)とも称される方言差から見ても、最終的に形成されたのは戦国以降のことであり、それが徳川の鎖国によって確立したものと考える。7世紀の「日本」国号国家の成立にしても、あくまで大和族の原型(もっと言えば理念)が都を中心に初歩的に形成されたことを示すに過ぎない。

サイト「子欲居的東アジア世界」の基本テーゼ(3)

3 中国のウルトラ多様性と、その日本など周辺への伝播
 「日本人は色々なところから来たのであり、別に中国だけではない。」と主張する向きがある。筆者の主張するところは、そのような色々な要素が凝集されて日本が形成されるには、中国漢字文明が「にがり」として必要であったと言うことであるが、そもそも日本文化の中の色々な要素というものは、色々な所から来たと言うより、中国大陸の色々な要素が渡来したものと言うべきである。
 大体、我々がイメージするような巨大中国国家、巨大漢民族が初歩的に形成されたのは秦の始皇帝の統一以降であり、それ以前(特に春秋以前)の中国は、「南蛮・東夷・西戎・北狄」と称されるような多様な民族が居住する土地であった。これら諸民族が社会の変動の中で、中心部で漢族に凝集されていくと共に、周辺地域への民族移動が行われたのであり、南方や北方に移動したものが、東の海を越えて半島や列島に移動してくることは普通にあったものと考える。
 ポリネシア人などオーストロネシア人が中国大陸から台湾を経て、太平洋諸島へ拡散したように、さらに元々中原にいたという説もある匈奴がフン族としてヨーロッパに現れたという説もあるように、中国大陸中心部からの民族移動は、我々の想像を絶するものがあるのかもしれない。
 ヨーロッパ並みの面積を持つ中国は、やはりヨーロッパ並みの多様性を抱えているのであり、現在においても、漢族以外に55の少数民族を包含しているし、漢族にしても、その方言差を見ても分かるように、かなりの多様性を包含しているのである。

サイト「子欲居的東アジア世界」の基本テーゼ(2)

2 日本文化はじめ東アジア諸国の文化は、中国漢字文明によって形成された
 内藤湖南の言葉を借りれば、「日本」の種子のようなものが、中国文明の影響の及ぶ前からあって、その種子が中国文明を養分として発展したのではない。列島上に存在した様々な成分が、中国文明という「にがり」によって徐々に凝集されていって、今に続く「日本」を形成したのである。
 中国文明という表現が嫌なら漢字文明と言ってもいいが、その漢字文明が中心から周辺へと波及していき、それが「にがり」となって、東アジア地域の諸文化を凝集していった。漢字文明によって凝集されたことは、日本だけでなく、朝鮮やベトナムなどの東アジア諸国も同様であり、そもそも中国自体が漢字文明によって凝集され、今ある形になっているのである。であるから、現在の中国も、日本・朝鮮なども、みな根底にあるのは中国漢字文明なのである。
 言わば、上に述べたような「中国の辺境」とでも言うべき地帯に流入した様々な民族(文化)要素が、中国漢字文明に凝集されて行って、現在のような中国から独立した中国と対等の国家・文化が成立したのである。

サイト「子欲居的東アジア世界」の基本テーゼ(1)

1 日本、中国、朝鮮の前近代史は東アジア世界史として叙述されるべきである
 東アジアにおいても、現在の中国、朝鮮、越南、日本のような国家・民族の枠組みが有効になってくるのは、せいぜい近代の直前においてであり、それまでの東アジア諸国の歴史は、現在の国家の枠組みを取り払った東アジア世界史という枠組みでないと理解は難しい。
 現に、高句麗のように中朝の国境にまたがり、中国、朝鮮・韓国それぞれが自国史の構成要素と主張する国家もあれば、朝鮮・韓国側がそれを認めないとしても、倭国が一時期、朝鮮半島南部を支配していたという主張もあり、そのような「倭国」を日本史の一部分と考えず、韓国朝鮮史の一部分と考える見方も十分成り立つのである。
 そもそも、古代においては現在のような意味での日本や朝鮮も越南も成立していないのであり、当時のこれら地域は「中国の一部」でなくても「中国の辺境」と考えた方が妥当なのである。
 なお、この場合の中国とは現代のような中国国家を指すのではなく、中国漢字文明の影響圏を指すのであり、これがここで言う「東アジア世界」の内容である。なお、その文明発祥地は黄河長江流域である。


 私が作っているサイト「子欲居的東アジア世界」の、基本テーゼをブログ上に少しずつ公開していきます。ブログに公開し終わったら、まとめて本サイトに掲載し、参考文献なども付したいと思います。

当サイトの基本テーゼ

 私が作っているサイト「子欲居的東アジア世界」の、基本テーゼをブログ上に少しずつ公開していきます。ブログに公開し終わったら、まとめて本サイトに掲載し、参考文献なども付したいと思います。

日本民族の形成(2) 日本民族の構成要素 アイヌ人は日本人ではないのか!

 いささか脱線したかもしれないが、やはり日本国で最大多数を占める民族の名称については、これくらいの議論が必要なのだろう。
 もっとも、大和族のみを日本民族(日本人)と見る見方は依然として根強く、むしろこっちの方が「日本人の常識」といった感がある。有名なところで、天下の岩波文庫がアイヌ民族の叙事詩である『ユーカラ』を「赤帯」(外国文学)に分類しているし、上の戴國輝の発言も、「アイヌ民族を日本民族の中に入れない」日本人アイヌ研究者に対して行われたものであり、戴國輝はその研究者に対し、「いま先生の話をいくら聞いても、先生がアイヌを研究し、アイヌをだいじにしているというのは、僕はちょっと疑問をもつ」(*4)とまで発言している。これに対し、言語学者・橋本萬太郎は戴國輝の発言に賛同して、このような「日本人の常識」は「世界の常識からいったら、ずいぶんとおかしな考え方」(*5)と述べている。
 なお、戴國輝は台湾出身であるが、彼のような考え方は、台湾にしろ大陸にしろ、中国では一般的なようであり、事実、中国では漢族だけでなく55の少数民族をひっくるめて、「中華民族」(中国人)と称している。それに対し、「少数民族は中国国民であっても、中国人ではない」(同様、アイヌは日本国民であっても日本民族ではない)と考える向きが多いようだが、筆者はいつまでも、そのような考えた方では行けないと思う。
 ※なお、戴國輝の批判を受けたアイヌ研究家「北大アイヌ研究室」の「児玉先生」とは、児玉作左衛門(*6)のことであろう。

(*4)(*5) 橋本萬太郎編『民族の世界史5 漢民族と中国社会』(山川出版社 1983年)終章、座談会「現代の漢民族」より。
(*6) ウィキペディア『児玉作左衛門』

日本民族の形成(1) 日本民族の構成要素 「大和族」との名称について

 まず、日本が多民族国家であると言うことは当然の前提であり、将来的には日本籍取得の韓国朝鮮人、中国人などのことも考えていかねばならないのだが、特に前者の場合、「各種の歴史的経緯」の一言では済まされない重い問題を抱えており、ここでは触れないで置く。日本社会が本当に過去の経緯を反省して彼らに接することがない以上、彼らの大多数は日本国籍を選択することはないだろうと思われる。
 少なくとも、近代以前に日本列島(というか現在の日本国の境域)に居住していたのは、大和族・琉球族・アイヌ族の三者である。なお、「大和族」という名称については、戦前の記憶から反感を持つ人も多いだろうが、それなら「大」を取って、「和族」もしくは「和人」とすればいいのではないか。たとえ「大和」=「日本」と考えられた時代が長いとしても、少なくとも日本という国号を変えない限り、やはり「日本民族」を上位概念とし、その下に対等のものとして大和族・琉球族・アイヌ族を置くべきである。筆者は、戴國輝の「上位概念としての日本民族は、大和民族の上にある。対等の概念としてアイヌ民族と大和民族があって、その上ではじめて日本民族が成立するのだと。そういう発想でないと」、アイヌを大事にしていることにはならない。(*1)という主張に全く同意するものである。
 この点、網野善彦などは、
 琉球王国が本州・四国・九州をほとんど「日本」と呼ばずに「ヤマト」といい、(中略)アイヌにたいして本州・四国・九州人を「和人」と呼ぶようになっているのも、「日本」と「大和」との不可分の関係をよく物語っている。 (*2)
と主張するのだが、筆者は上の指摘(下線部)から、むしろ大和(和)・琉球・アイヌで日本民族を構成させることは、十分合理性のあることであり、絶対に必要なことだと考える。
 しかるに、なぜ網野が斜体字部のような結論に至るのか理解できない。これは、結局、網野が日本を単一民族国家とする考え方から脱却できていないからではないのか。もっとも、網野の場合、「日本」という国号を将来的に「われわれ国民の総意で変えることができる」(*3)とも発言しているので、かつて「大和」と同義で使われた「日本」という名称は、多民族国家の国号としてふさわしくないと考えているのかもしれない。
 いささか余談になるが、網野は同じ箇所で「中国大陸側に視点を置いた」日本という国号を「大嫌い」と述べた江戸末期の「国家神道家」について紹介しているが、もとより前(*4)にも述べた通り、列島を「日本」(日の本=太陽の下≡東方)と見る視点は、おそらく列島に渡来した中国人の発想であり、中国文明の波及によって徐々に独自性が出来上がっていった日本という国の有り様を端的に物語るものであり、筆者は大好きである。

(*1) 橋本萬太郎編『民族の世界史5 漢民族と中国社会』(山川出版社 1983年)終章、座談会「現代の漢民族」より。
(*2) 網野善彦『東国と西国、華北と華南』(1992年)、『網野善彦著作集第十五巻』(岩波書店 2007年)所収。なお、網野は同書において、上の戴國輝の発言を批判的に紹介している。
(*3) 網野善彦『「日本」とは何か』(2000年)、『網野善彦著作集第十七巻』(岩波書店 2008年)所収。
(*4) 拙文『日本国号は中国起源という問題に関連して

当面、ブログとHPの両方に記事を載せます

 ブログでは読みにくいので、HPの更新を再開したのですが、ツィッターで更新を宣伝したり、ご意見を募るのには、ブログの方が便利なので、当面、両方に記事を掲載します。
 それでも、長文記事などはブログでは読みにくいので、HPをおたずねいただき、プリントアウトしてお読みいただくことをお勧めします。

日本民族の形成(始めに) 私の問題意識

 「網野史学」で名高い網野善彦の著作を色々と読んできて、色々と教えられることは多かったのだが、もう一つしっくりしないところがある。このように思っていたのは、別に筆者だけではなかったようで、古い毎日新聞の切り抜きの中の「日本は単一民族国家で統一国家が古くからあるという通説を壊そうとしている。一応は分かるのだけれど、壊した後のイメージがはっきりしません。壊すことに目的があるのでしょうか」という一節(*1)に、ラインマーカーを引いていたのを最近、見つけ出した。そう、従来のイメージは壊されたのだけれど、網野の著作を読んでいても、も一つ先の日本史像が見えてこないのである。

 確かに、「通説」を壊した網野善彦の功績は大きい。しかし、ここで考えねばならないのは、「日本は単一民族国家で統一国家が古くからある」という従来の通説は、戦前から継続していたものであり、しいては『日本書紀』の枠組みではなかったのか、と言うことである。戦後、確かに『書紀』の史実性は否定され、「神武紀元」などは否定された。しかし、我々の日本史像は今なお『書紀』に呪縛されている。(史学界はいざ知らず、網野の観点はまだ現代の日本に一般的ではないと思う)。
 そもそも、「単一民族国家で統一国家でなくても文化的統一性が古くからある」という主張は、(外国の影響を受けない)日本の独自性、固有性、しいては特殊性の主張であると言える。白村江の敗戦で列島への逼塞を余儀なくされた時、当時の大和支配者は列島の諸民族を結集して「日本」国を作ろうとし、更には最初の歴史書『日本書紀』によって、大陸から切り離された列島の「独自性、固有性」を主張した。明治政府は、言わば古代「日本」国への「復古」を目指したのだが、「天皇絶対」を標榜し、欧米列強に対抗して中国・朝鮮などを侵略しようとしていた当時の日本にとっては、この「独自性」の主張はそのアイデンティティとして必要不可欠のものであった。そして、戦後もこの状況は根本的に反省されず、踏襲されている。
 思うに、「左翼思想の影響が強い」と言われた戦後歴史学も、戦前の皇国史観も、ただ「天皇」に対する立場が違うだけで、基本的には同じような歴史認識の下に、それぞれ違う面から、歴史を叙述していただけではないのか?
 実際、「戦後の日本も、戦前の日本と同様、国家のアイデンティティを確立しようと思えば、日本文化の特殊性、固有性を言い立てるしか方法はなかった」、「だから戦後歴史学は根本的に皇国史観を超えることはできなかった」、「戦後歴史学は、戦前期歴史学と、実は連続している」という小路田泰直の指摘がある。そして、戦後歴史学は津田左右吉を「媒介に戦前期歴史学と連続し、その伝統を受け継いだ」(*2) と小路田は言う。
 戦前、『古事記』『日本書紀』に関する研究をめぐって弾圧を受けたことから、戦後、「進歩的」なイメージの強い津田左右吉であるが、次のような彼の発言に、例の『国民の歴史』の西尾幹二と共通するものを見いだすのは筆者だけだろうか。
 日本の文化は日本の民族生活の独自なる歴史的展開によって独自にかたちづくられて来たものであり、随って支那の文化とは全くちがったものであるということ、日本と支那とは別々の歴史をもち別々の文化をもっている別々の世界であって、文化的にはこの二つを含むものとしての一つの東洋という世界はなりたっていず、一つの東洋文化というものはないということ(津田左右吉『シナ思想と日本』まえがき)
 『国民の歴史』を少し読んだ人なら、「日本の文化は東洋と西洋との二大文化が対立するそのなかの、東洋文化の一翼では必ずしもない。西洋の文化ばかりではなく、東洋の文化に対しても対立的なものを孕んでいる。」(*3)という記述を記憶されていると思う。
 言わば、日本文化の特殊性、独自性(特に中国らからの)を主張している点では、津田左右吉も西尾幹二も、同じスタンツに立っていると言っていいのである。
 『国民の歴史』現象も既に過去のものとなった(と思う)が、確かに津田と同様、「中国文化と日本文化の絶対的非和解性への確信」は「やはりほとんど人々の常識に訴える力を持たなかったから」(*4)であろうが、それにしても既存歴史学界からの同書に対する批判は必ずしも活発ではなかったように記憶している。
 その要因は、上の小路田の指摘通り、(左翼史観の影響が強いと言われる)戦後歴史学界にしても、結局、西尾幹二などの一派と津田左右吉的なものを媒介として連続しており、結果、日本史全体像の事実認識において、言うほどの差がなかったからではなかろうか?(むしろ、「網野史学」の出現などに見られる戦後史学の変化が、西尾をして『国民の歴史』執筆に至らしめた大きな動機の一つだったのかもしれない。)
 確かに、現代の日本では、津田・西尾のように全面的に中国文化の影響を否定することはないが、それでもそれ以前に固有の日本文化が存在していたというような見方が一般的であり、日本文化のは中国文化の影響によって徐々に形成されていったとするような内藤湖南的な見方は、少なくとも既存学界にはほとんど見かけない。
 先にも書いたように「神代」の存在は否定されたものの、それに代わって「縄文」の存在が強調され、その1万年にも及ぶ歴史の中で、日本文化の固有性・独自性は形成され、中国文化の影響を受けるようになっても、日本の独自性は失われなかったという見方が一般的なように思える。
 いくら時間をさかのぼってみても、外来文化に影響されない日本固有の文化の存在など発見できないとすれば、その存在を証明する方法は一つしかなくなる。それは、歴史以前的な「絶対的過去」を歴史のはじめに想定し、その「絶対的過去」に、日本固有文化の形成期を見つけ出すという方法である。(*5)
 この「絶対的過去」が、「神代」から「縄文」に代わっただけで、中国文化の影響を受ける前の日本文化の固有性を主張する点では、戦後史学も依然、『書紀』を踏襲していると言うほかはない。

 網野善彦の功績は、「孤立した島国・日本」という、言わば「現代の神話」を打破したことであり、さらに、彼は日本の歴史を通じて連続した「海を通じての周辺諸地域との交流」や、その結果形成された「列島各地の多様性」について繰り返し言及し、従来の日本史像を破壊する上で非常に大きな功績を残しており、その点は否定できない。
 しかし、最初にも述べたとおり、読んでいて「なるほど」とは思うのだが、どうもしっくり来ない。「一応は分かるのだけれど、壊した後のイメージがはっきりし」ないのである。この原因を筆者なりに考えてみると、次の通りである。
(1)「日本」なるものは、もとより最初から存在していたわけではないが、少なくとも現時点では「日本」は確固として存在しており、列島統一国家を形成し、東西の文化差をはらみながらも、文化的均質性を保有している。網野の場合、従来のイメージを壊すことに執心する余り、そのような「日本」の最初からの存在を否定するだけで、それがどのように形成されて行ったかについての追究が弱い。
(2)思うに、「日本」なるものが形成された要因として、中国文明の影響は最大必要不可欠なものであるのだが、網野はそれを諸地域との海を通じた交流として相対化しているために、中国文明が「にがり」として、列島の多様な要素が凝固されていき、「日本」なるものが徐々に形成されていったという過程を追究できないでいる。

 浅学の身を顧みず、以上のように網野の問題点を考えてみたのだが、いささか拙速の感がないわけでもない。今後も、この文章は機会を見て補足することになると思うが、以後、筆者なりに日本文化の形成過程、言わば日本民族・国家の形成過程の大まかなアウトラインを描いて行きたい。
 筆者は、現代の日本文化に独自性がないとは思わない。しかし、それは中国文明の影響によって徐々に形成されていったものであるという、内藤湖南の主張に基本的に同意するものである。アウトラインも、そういう観点で描いていきたいと思うのだが、所詮は浅学の素人、この問題意識以上の分量にはならないだろう。
 ただ最後に指摘しておきたいことは、「日本」形成における中国文明の「にがり」的要素という事実を閑却している限り、いくら「マルクス主義的手法の応用」を主張してみても、その歴史記述は、戦前の皇国史観と大して変わるものとはならないということである。その点をはっきりさせたのが『国民の歴史』であったのかもしれない。マルクス主義の基本が「実事求是」である以上、「日本」形成における中国文明の「にがり」的要素という事実を閑却していてはならないのである。

(*1)毎日新聞2005年10月18日『「網野史学」が残したもの 上』の尾藤正英・東京大名誉教授(日本近世史)の発言。
(*2)小路田泰直『「邪馬台国」と日本人』(平凡社新書 2001年1月22日)
(*3)西尾幹二『国民の歴史』(産経新聞社 1999年11月30日)
(*4)小路田前掲書。
(*5)小路田前掲書。

日本形成における中国文明の働き

日本形成における中国文明の働き
 中国文明の日本への影響について言及した時、少なからぬ人が、日本の文化的要素は「色々な所」から来たのだと反論する。筆者は、中国大陸の色々な要素が伝わった言うべきではないかと考えるわけだが、ここで忘れてならないのは、中国漢字文明の役割である。
 そもそも、ある一定地域の住民が、例えば中国、日本、朝鮮、越南とか言った規模で、国家なり民族なりの統合を実現するためには、文明というものが必要である。文明とは、言うなればそれを誕生させるに足るだけの生産力であるが、その中でも文字は必要不可欠の要素であり、一般に文字の発生をもって文明発生の標示とする。この文明が、内藤湖南流に言えば「にがり」の役割を果たして、これら国家・民族が統合・形成されるわけである。
たとえ、列島に様々な要素が渡来したとしても、それだけでは「日本」などといったものは形成されない。そもそも、縄文期の日本列島が周辺から孤立していたというのは、前にも述べたように一種の「現代の神話」(信仰)に過ぎないが、たとえ周囲を海に囲まれて孤立した環境があったとしても、そのような状況は民族の統合を妨げるだけだろう。
実際、大陸から離れ基本的に孤立していた環境と言えば、まず思い浮かべられるのはパプア・ニューギニアであるが、ここでは人々は数十、数百人程度の少人数の部族に分かれて生活し、それぞれの部族ごとに言語、習慣、伝統が異なっており、人口600万人に対して、言語の数は800以上にもなり、そのうち130の言語の話者が200人以下であり、290の言語の話者が1000人以下であるという。
なお、パプア・ニューギニアでは言語の84%は「パプア諸語」と呼ばれるが、これは非オーストロネシア系の「先住言語」を「その他多数」と一くくりにしただけの話で、「パプア諸語」間の単語や文法など、相互関連性は皆無に近いという。(ウィキペディア「パプア・ニューギニア」
文明の洗礼を受けた現代においても、なおこの数字である。そもそも、原始時代においては、人々は上のような小規模単位で生活していたのであり、縄文期の列島の人口は最盛期で26万人というから、もし一つの部族の人口を単純化して500人とすれば、実に500ぐらいの部族(言語)が存在していた頃になる。
言わば、もし列島が大陸から孤立していたとしたら、このようなニューギニア的状況が現出していたのであり、そこには日本民族なり国家なりの統合は存在しようもなかったであろう。様々な要素が伝播しただけでは、日本のようなものは形成されない。繰り返すが、そのような統合を実現したのは中国文明の伝播であったのである。
思うに、中国周辺で日本、朝鮮、越南が現在独立し、一定規模の民族と国家を形成しているのも、中国からの距離という相対的「孤立」性と共に、中国文明が伝わらない絶域ではないという相対的「開放」性の結果であろう。むしろ、日本だけでなく朝鮮、越南も海を通じて中国と密接に結びついていたのであり、そのような海を通じた開放性が、かえって中国奥地の少数民族地域より、中国文明の伝播に有利であり、その結果、かえって国家・民族の独立が促されたのではないだろうか。
*モンゴルはどうなんだと突っ込みがありそうだが、モンゴルの人口は約300万、対し日本約1億3千万、朝鮮(南北合わせて)約7千万、越南約9千万と規模が全然違う。
最後に、指摘しておくが「日本」という名称自体、漢語つまり中国渡来であり、「ひのもと」という訓読みも、列島に存在していたわけはなく、「日本」を訓読(翻訳)した結果、生まれたものであろう。そもそも、列島を「日の本」(太陽の下=東方)と認識するのは、西方大陸の中国人であり、列島から見れば、「日の本」は太平洋である。これは決して列島で生まれたものではなく、列島で生まれたのだとしても、これは渡来した西方中国人の認識であろう。

日本人の起源は中国

 日本人というのは、元々は中国大陸に居住していた人間であり、それが日本列島に渡来して日本人になったと言っても、過言ではないのではないだろうか?
このようなことを言うと、「いや、中国だけではない。南方、北方と色んな所から来たのだ」と反発する向きもあるだろうが、ここで注意を喚起しなければならないのは、中国というものの多様性である。

中国の多様性
日本では、中国人というと漢族のことだと思っている人が多いようだが、中国では漢族だけでなく、それ以外の55の少数民族も合わせて中国人と言っている。言語にしても、確かに国際的には漢族の言語、しかも北京語をベースとした「普通話」(共通語)が代表して中国語となるわけだが、「普通話」以外の広東語などの漢民族の多様な方言、55の少数民族の言語なども中国に含まれるのであり、漢族の言語は「漢語」と称される。
そもそも、現在のように漢族が全人口の圧倒的多数を占めるという状況が昔からあったわけではないし、もっと言えば、漢族などというものが最初から存在したわけではない。太古の中国(いや、東アジア)は、現在の55の少数民族を思わせる(おそらくもっと多様な)様々な民族が居住していたのであり、中国漢字文明の誕生と共にこれらが次第に統合され、ついには春秋・戦国の大激動(中国社会の大発展)、ついには秦の始皇帝による中国統一帝国の形成、続く漢王朝の統治の中で雪だるま式に統合を拡大していって、統合されなかったものが山間部や辺境に少数民族として残ったのである。いわば、現在我々が目にしているような圧倒的に巨大な漢族と多数の少数民族からなる中国といったものは、ここ2000年ほどの産物に過ぎない。
つまり、2000年以上前には、特に春秋時代より前には、中国中心部においても、雑多な民族が居住していたのであり、実際、中国最初の王朝と言われる夏にしても、夏人は長江流域から黄河流域に進出した「南蛮」出身であり、次の商(殷)人、続く周人は「北狄」出身と言われ、秦人も元々は「西戎」出身であったという。
そのような多種多様な民族間の興亡を軸として中国史は展開し、やがて始皇帝以降、巨大統一国家を形成するわけであるが(考えようによっては、中国では2000年前に「EU統合」がなされていたのである)、確か『国民の歴史』の西尾幹二などが宋以降、漢族王朝が北方民族に圧迫される状況に対して「唐滅亡後は、一民族史としての中国史は成り立たなくなる」などと書いていたが、多民族国家である中国においては、そもそも一民族史としての中国史などというものは最初から存在しようがないのである。

中国史上の民族興亡
 伝説上の黄帝と蚩尤の争い、夏の成立、夏商(殷)革命、さらに歴史上でも、商(殷)周革命、呉越の興亡で日本にも知られる春秋時代の争乱、続く戦国の争乱、秦始皇帝による統一、漢王朝の誕生などの激動は、決して「漢族」内部の出来事ではなく、民族間の興亡として理解されるべきである。
これらの諸民族間の興亡の中で、敗北した民族はどうしたかというと、勝利した民族の支配下に置かれるのでなければ、周辺諸地域に逃避していき、それがまた民族移動の玉突き現象を引き起こして行った。概して文化的に劣っていた民族が敗北して逃避して行ったと思われるが、それでも、その逃げた民族の方が前から周辺地域に居住していた部族の文化より優れていたと言ったことは、いくらでもあっただろう。
例えば、中国南方、東南アジアにかけての民族分布を見ると、中心部に巨大漢族がひかえ(この漢族にしても南北差は相当なものがあるのであるが)、そしてその南方や山間部にはチベット・ビルマ語系諸民族、タイ語系民族、ミヤオ・ヤオ語系民族、南アジア語系民族、南島語(オーストロネシア語)系民族と民族の層をなしているのであるが、これらの諸民族は元を正せば、中国中心部=黄河長江流域に居住していたのであり、中心部での闘争に「負けた」順に南方へと移動していったのではないだろうか。
実際、これら東アジア南方系諸族の言語は、語族の違いを超えて、ある種の共通点を持つ。つまり、言語学者が「順行構造」と呼ぶもので、動詞は目的語の前に来る(VO形式)のに対し、修飾語は名詞の後に来る。(例えば、マレー語で「森の人」を意味する「オラン・ウータン」は、「オラン」が「人」で、「ウータン」は「森」の意味である)。このような統辞法(文法)の一致は、これら諸族が元々は近隣地域に居住して影響しあった結果であり、広東語などの漢族南方方言にも、このような文法構造は残っている。
その中で最も南方に位置する結果になったオーストロネシア人は、元々は大陸に居住していたものが、台湾に移り、そこからフィリピン、インドネシア、さらに太平洋諸島、遠くハワイ、イースター島、ニュージーランド、しいてはマダガスカル島にまで拡散したのである。これも、長江流域そして黄河流域での農耕の発展、続く中国文明の誕生が周辺民族にもたらした玉突き現象の結果であろう。農耕の発生・発展と共に、農耕民族と狩猟採集民族、漁撈民族、遊牧民族間の闘争、さらには農耕民同士の闘争も当然激化するだろう。また、文明の発生は、いわば階級対立の発生と同義であり、奴隷獲得のための民族間戦争も生まれてくる。

中国から南北への拡散
主に南方に目を向けたが、北方についても、決して北方諸族が一方的に南下するだけではなかった。例えば、匈奴について言うと、『史記』には商(殷)に滅ぼされた夏の子孫が逃げて匈奴になったと書いてあり、これは信用できないとしても、春秋時代には匈奴は中原(中国中心部)に居住していたという説もある。また、後漢になってから、匈奴は南北に分裂したが、後漢と連合した南匈奴に討たれた北匈奴は、逃亡して行方知れずとなって中華圏から姿を消したが、やがてフン族としてヨーロッパに現れて、ゲルマン民族の大移動を引き起こしたという説もある。もちろん、確かな話ではないが、北方への玉突き現象による民族移動も存在したと考えるべきだろう。
もとより、中国文明発生以前のことであるが、1万年以上前にベーリング海峡を通って、アメリカ大陸に進出して行ったのは東アジアの住民であった。さらに、中国大陸からインドへの拡散も視野に入れるべきかもしれない。実際、稲作はインドより長江流域の方が圧倒的に古いことは分かっており、長江から四川・ビルマルート(かつての「援蒋ルート」)を経てインドに伝わった可能性は高いだろう。インド「原住」と考えられていたドラビダ人も、元はアーリア人と同じく西北方からインドに進出したのであり、その言語とアルタイ語との類似性を指摘する向きもある。
ちなみに、南方諸族の「順行構造」に対し、アルタイ語に代表される北方諸族の言語は「逆行構造」で共通しているという。つまり、動詞は日本語と同じ「OV」形式、修飾語は目的語の前に来る。だから、日本語では「安倍総理」と行っても、「総理安倍」とは言わない。
なお、漢語(中国語)は、動詞は南方系「順行構造」(漢文でおなじみの「VO」形式)であるのに対し、修飾語は北方系「逆行構造」で、だから中国語でも「習近平主席」と言っても「主席習近平」とは言わない。いわば、南北混合の構造であり、少なくとも書き言葉は夏王朝のそれを継承した商(殷)を北方系の周が同化した結果、このような構造が発生したという。

拡散の列島への波及
さて、本題に戻るが、日本列島がこのような民族移動の影響を受けなかったはずは決してない。
最終的に大陸から切り離されて以来、列島は周囲を海に囲まれて大陸から孤立し、その中で、列島の住民は独特の発達を遂げた、などというのは、すでにある種の論者の信仰でしかない。
 このあたりの海を通じた交流については、網野善彦などがよく書いていることで、ここで繰り返すつもりはない。実際、オーストロネシア人の太平洋拡散という事実を見れば、日本列島が縄文時代、孤立していたなどと言うことは、決してあり得ないだろう。事実、福井県鳥浜貝塚からの出土物は、稲がないだけで、中国・長江流域の遺跡の出土物とよく似ているという指摘もある。
 弥生時代になると、もはや大陸からの渡来は否定できないのであるが、有名なところで、弥生時代以降の千年間で、年間一千人としても、都合百万人が渡来したという説がある。
 また、渡来人というと朝鮮からの移民を云々する向きがあるが、そもそも日本民族と同様、朝鮮民族が問題になるのも、新羅が半島を統一して半島に居住していた諸民族を統合してからであり、それまでの半島は列島と同様、雑多な諸民族の居住地であり、その諸民族の大多数は元を正せば、中国大陸からの移民・難民、流亡者であったのである。
朝鮮半島では、もとより伝説に過ぎないが、商(殷)が滅亡した際、殷の王族、箕子が東方に赴いて、箕子朝鮮を建国したという。なお、考古学的発見によると、当時、中国北部には箕姓の人々が住んでおり、彼らが商の滅亡の際、中国東北部、朝鮮半島へと移住した可能性が指摘されている。また、衛氏朝鮮は、その実在について疑いのない半島最初の国家であるが、中国戦国時代の燕の出身であった衛満が漢初に「一千戸を率いて」半島に逃亡して建国したという。
 その後も、後漢末の争乱、中国の南北朝の争乱などで、中国大陸を後にした亡命者や難民は相当な数に達したことは間違いない。いわば、そのような中国各時代、各地域からの重層的な流浪者のコロニーが中国周辺諸地域に作られたのであり、日本列島にも、当然、その波は及んだのである。
原住民と行っても、元を正せば、より古い時代の中国大陸からの移住者であったろう。そう言えば、最近は「先住民」と言っても、「原住民」という語は余り聞かない。
大陸から太平洋に拡散したオーストロネシア人、その他、かつて中国中心部に居住していた南方系諸族、特に稲作との関連で長江流域と列島との関連が指摘されるが、長江流域に居住していた呉越の民族(おそらく南方系諸族であろう)の渡来も十分考えられる。
そもそも、日本文化の中に存在するという南方系・北方系要素というのは、もとは中国大陸中心部に存在した雑多な要素が周囲に拡散していき、その一支が渡来したものではないのか。先にも書いたように、中国中心部がそもそも「東夷・南蛮・西戎・北狄」といった多民族の居住地であったのである。
いわば、古代の日本列島というのは、各時代、各地域に渡来した中国の南方系・北方系諸族、さらには各時代、各地域から渡来した漢族が雑居する地帯だったのである。なお、漢族と言っても、同じではなく、地域ごとの方言差は非常なものがあるし、時代が違えば、言語風俗も「外人」のように違う。例えば、椅子を使わないで床に座るのは、中国では漢代以前の風であり、日本人の伝統生活を見た中国人は「古代の中国を見ているよう」と感じたりするそうである。
倭人というのも、原住民と言うより、渡来人より前に列島に渡来した言わば「先住民」であり、おそらく言語的にもかなり雑多な要素が含まれていたことであろう。
そのような雑多な中国大陸からの渡来民が、やがて統合されて日本人となっていくわけであるが、その統合に際して、豆腐を凝固させる「にがり」のような働きをしたのが、日本だけでなく朝鮮や越南のようなアジア諸国の場合、中国漢字文明であったのである。

和歌を初めて作ったのは中国人?

 和歌を初めて作ったのは渡来中国人だという説がある。東洋史学者だという岡田英弘の主張で、彼の著作『日本史の誕生』から、関連する記述を引用してみると、
・『古今集』の序で紀貫之が言っているではないか。和歌の開祖は「なにはづに さくやこのはな ふゆごもり いまをはるべと さくやこのはな」の作者、華僑の王仁だと。(同書P36
・文化的に中国系でなきゃ和歌がよめるはずがない。だいたい、五七調そのものが中国の南北朝の楽府の長短句のまねだ。(同書P250)
 王仁(わに)というのは、いわゆる「応神天皇」の時に、『千字文』と『論語』を伝えたとされる人物で、もとは百済に渡来した中国人であったと言い、「王」という姓から見ても、中国系であることは間違いないだろう。もちろん、あくまで『日本書紀』などの伝承中の人物であり、この人物の実在については、疑問視する向きもある。
 しかし、たとえ非実在の人物であれ、渡来中国人が和歌の開祖であると、紀貫之が書いているのは注目に値しよう。
 なお、『古今和歌集』「仮名序」の当該部分は次の通りである。
難波津の歌は、帝の御はじめなり。安積山のことばは、采女のたはぶれよりよみて、この二歌は、歌の父母のやうにてぞ、手習ふ人のはじめにもしける。
現代語訳
難波津の歌は、仁徳天皇の御代の最初のお歌である。安積山の歌は、采女が興に乗じて詠んだ歌で、この二首の歌は、歌の父母のようなもので、字を習う人が最初に書くものにもなっていた。
(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』 角川ソフィア文庫)
と、都帰りの采女の歌と共に、王仁の歌を人々の歌の模範、「父のようなもの」としているのであり、実際、「難波津」の歌は、木簡や土器などに書き付けられたものが多く出土しているという。
 なお、紀貫之はこの少し前で、
ちはやぶる神代には、歌の文字も定まらず、すなほにして、ことの心わかがたかりけらし。人の世となりて、素戔嗚尊よりぞ、三十文字あまり一文字はよみける。
 現代語訳
神代には、歌の音数も定まらず、心に思ったままをそのまま詠みだしたので、歌われていることの意味がはっきりとわからなかったようだ。人の世になって、素戔嗚尊から、三十一文字の歌を詠むようになった。
と、和歌の起源を素戔嗚尊(スサノオノミコト)に求めているが、これはもとより、太陽女神・天照大神の弟とされる神話中の「神物」で、信ずるに足りない。むしろ、問題は渡来中国人の作ったとされる歌が和歌の「父母のようなもの」とされ、初学者の手本とされていたことである。
 思うに、古代の日本には、歌のようなものがなかったとは思わない。しかし、それは「歌の音数も定まら」ぬ、ただ「心に思ったことをそのまま詠みだした」ようなものだった。このような倭歌に三十一文字(五七五七七)のリズムを与え、今に続く和歌(やまとうた)の形式を生み出したのは、渡来中国人ではなかったのだろうか。少なくとも、五七のリズムは、本来、中国のもので、少なくとも和歌の起源には漢詩の影響があったことは否めないのではないか。
 漢詩というと、漢文の授業で教える五言詩や七言詩が有名であるが、長短句と呼ばれる五言七言が入り交じった詩歌も中国にはたくさんある。なお、最近、中国では「逆輸入」というか、「漢俳」とか「漢歌」とかいう詩の形式が誕生しているという。つまり、仮名ではなく、漢字を五七五、あるいは五七五七七の形に詠むのである。ちょうど、「城楼逐月高、近水悠悠遠影揺、来尋八百橋」(城楼月を逐いて高く、近き水は悠悠として遠き影は揺れる、来たり尋ぬ八百橋)といった感じである。
 「和漢」と言う時、我々は「漢」に先立ち「和」があったものと信じがちである。詩歌で言うと、日本では漢詩の前に和歌が存在していたのだと。しかし、どうも和歌とは渡来中国人(少なくとも中国古典の素養を持った人間)が漢詩をベースに倭語で創作を試みた結果が、和歌の誕生になったのではないだろうか。
 なお、冒頭に紹介した岡田英弘は、その交友関係から見ると、かなり保守的な政治傾向を持っているようだが、その友人という西尾幹二(例の『国民の歴史』の著者)などとは、かなり違った歴史観を展開している。
 岡田によれば、和歌に限らず、当時まだ諸民族雑居の状態であった倭国に代えて、日本国を建国し、しいては漢文を倭語に翻訳する形で、現在に続く日本語を形作り、いわば日本文化を形成していったのは「華僑」、つまり渡来中国人だというのである。(渡来「朝鮮人」の役割を強調する流れが存在するが、日本民族と同じく朝鮮民族が問題になるのは、半島の諸民族を統合した統一新羅以降であり、半島からの渡来人と言っても、王仁のように本を正せば中国人であることが多い)。
 もとより、岡田が「華僑」という名称を当時においても使用するのは、かなりの違和感を感じないでもないが、中国漢字文明が日本という統一体、しいては日本語、日本文化を形成したことは、間違いないと思う。言わば、「和」は「漢」の前に存在したのではなく、「漢」によって形成されたのである。

参考文献
 ・岡田英弘『日本史の誕生 千三百年前の外圧が日本を作った』(1994年10月31日 弓立社)
・高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(1914年1月15日 角川ソフィア文庫)
・朱新林『日本の詩歌と中国の詩歌の関係』
http://www.spc.jst.go.jp/experiences/change/change_1304.html

初期人類の社会構造について

 初期人類が群れ内部の争いを解消できたのは、いわゆる人類学者が主張するような一夫一婦の採用ではなく、集団婚(多夫多妻)の結果である。

 人類学者が約320万年前の猿人化石を調べた結果、男女の体格差は現代人並みで、男性が女性より少し大きい程度だという。ちなみに、ゴリラのように、優位のオスが群れのメスを独占するようなハレム型の動物では、オス同士の争いが激しく、オスの体格差が勝敗を決することから、オスの体格はメスの約1.5倍になったりするという。
 一方、チンパンジーやボノボ、猿人、現生人類では、オスとメスの体格差は、それほど大きくない。そして、そのような体格差を持つ動物の社会はゴリラのようなハレム型ではなく、一夫一妻かチンパンジーなどのような多夫多妻型であると、人類学者は言う。
 多くの人類学者は、その体格差から、猿人のような初期人類は一夫一妻の集団であったなどと主張するが、ある論者が指摘するように、一夫一妻なら、テナガザルのように男女の体格差はほぼ同一となるのではないだろうか。
 人類学者は、犬歯(これは闘争用の武器である)の縮小をもって、体格差の縮小と共に、人類がメスをめぐって争う必要のない状況に至った証左(この推論は全く正しいが)とし、それを可能にしたのは、一夫一婦制であると主張する。一方、「チンパンジーのような多夫多妻の集団では、集団内の順位がメスの獲得に関係するだけに、オスの争いは激し」く、それゆえに犬歯は縮小していないという。
 しかし、ある論者が指摘するように、なぜ人類学者はチンパンジーを引き合いに出すだけで、同じく多夫多妻のボノボに言及しないのだろうか。チンパンジーもボノボも、多夫多妻でありながら、争いの絶えないチンパンジーに対し、ボノボの群れは平和的であり、「チンパンジーは性の問題を力で解決するが、ボノボは力の問題をセックスで解決する」と言われたりする。
 ちなみに、同じ多夫多妻の両者で、このような差異が生ずる要因として、発情期の長短が上げられる。ちなみに、ボノボのメスには発情期を長く維持するゆとりがあり、ほぼいつでも交尾できる状態にある。「おかげで雄は支配的な地位を他の雄と争ったり、雌に対して暴力的になったりせずにす」むという。逆に、発情期の短いチンパンジーでは、性交可能なメスが少ないため、メスをめぐるオス同士の争いも熾烈になる。
 このような両者の関係を考えたならば、争いが少ないのは、一夫一婦よりも、むしろ多夫多妻の方ではなかろうか。ボノボの発情期が長いのは、その環境のもたらした食料の豊富さであると言うが、人類の場合は、もとより他の動物と違って、そもそも発情期というものを消失している。この特性を人類がいつごろ獲得したかは明らかではないが、発情期をなくし、いつでも性交可能なメスが存在する集団では、むしろ争いがなくなるのは、群れの中の男女がお互いを共有し合っている多夫多妻ではないだろうか。
 実際、一夫一妻は決してオス同士の争いを解消するものではない。どのメスを自分のものとするかを巡っては、当然、オス同士で熾烈な争いが起こるであろう。結局、エンゲルスなどが指摘したように、「男子の全集団と女子の全集団とが互いに相手を所有しあっていて、ほとんど嫉妬の余地を残さない形態」である「集団婚」(多夫多妻)によって初めて、群れ内部のオス同士の対立は解消されるのである。
 そして、そのような比較的大きな群れを形成し、群れの団結を維持することによって初めて、猿人のような初期人類は、生き延び進化(動物状態から人間への)を達成できたのである。その群れの団結のために、上のような成員同士の性行為は欠かせぬものであったろうし、人類における発情期の喪失(特にメスの)は、そのような文脈で考察されるべきものかもしれない。

 (参考文献)
1. エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』(新日本出版社 1999年7月20日)
2. 三井誠『人類進化の700万年――書き換えられる「ヒトの起源」』(講談社現代新書 2005年9月20日)
 著者は、人類学者ではなく新聞記者であるが、よく一般の人類学者の見解をまとめている。
3. クリストファー・ライアン、カシルダ・ジェタ『性の進化論』(作品社 2014年7月20日)
 各種の観点から、初期人類の乱婚状態を立証している。
4. 「ボノボの森へ “人間に最も近い類人猿”の意外な素顔」(『ナショナル ジオグラフィック』2013年3月号)

日本語の成立に決定的な影響を与えたのは中国語(漢語・漢文)である

 日本語が漢文の翻訳作業の結果、形成された言語であることは間違いない。一般に、漢語・漢文の渡来以前から、日本列島には立派な日本語でなくても倭語があり、それを駆使する日本人(倭人)が、自己の言語を表記する手段として漢字を取り入れたのだと考えられている。
 しかし、当時の列島と中国との圧倒的な文明差を考えたらならば、それは眉唾と言うほかはない。実際、日本語は数字の数え方自体、中国語のそれを採用しており、漢語・漢文到来以前には、20より上の数を示す言葉さえなかったと考えられるからである。(拙文『日本語の数の数え方について』参照)漢字・漢文と共に、多くの新概念が伝えられたことは間違いないが、当時の倭語には、これらの新概念を表現する言葉が必ずしも存在しなかった。
 例えば、内藤湖南は「忠孝」という語について、一般的な善行正義を意味する「ただ」(正)・「たか」(孝)というような訓読みしかないことから、中国から、それらの語が伝わる以前の列島には、「(君に)忠(親に)孝」という言葉、しいてはそういった思想自体の存在に疑問を呈している。(『日本文化とは何ぞや(その一)』1922年)
 当時の倭人たちは、結局、漢語・漢文をベースに、その一語一語に意味が対応する倭語を当てはめて行き、適当な語がない場合は、従来あった倭語に新たな意味を持たせ、場合によっては、倭語のような言葉を考案し、言わば漢語・漢文の翻訳作業の中で、新たに日本語を形成していったのである。こうして作られた日本語は、従来の倭語とは、似ても似つかぬものであったことだろう。
 
 現在の日本語が、中国語と語順(文法)が違うのも、おそらく当時の列島中心部(大和)の支配層の言語であった倭語への翻訳作業として行われたに過ぎず、これは日本語が漢語・漢文の圧倒的な影響の中で、形成されたことを否定するものではない。
 ちなみに、日本語の統辞法(文法)は、東アジア北方系言語に属する。日本語がアルタイ語族に属するかなどという比較言語学上の論争はさておき、動詞が目的語の後に位置し、修飾語が名詞の前に来る現日本語の構造は、明白に「逆行構造」であり、アルタイ系言語などと同じ北方系に属する事は間違いない。
 それに対し、東アジア南方系言語(タイ諸語、他)は、「順行構造」を持ち、動詞は目的語の前に来るのに対し、修飾語は名詞の後に来る。動詞は、いわゆる漢文でおなじみのVO形式、修飾語は有名なところで、マレー語で「森の人」を意味する「オラン・ウータン」であるが、これは「オラン」が「人」で、「ウータン」は「森」を意味する。
 なお、中国語は南方系・北方系の中間にあって、両者の混合によって、歴史時代に形成されたものである。であるから、動詞は南方系のVO型であるのに、修飾語は北方系で、名詞の前に来る。だから、中国語では「習近平主席」と言っても、「主席習近平」とは言わない。
 このように、日本語は文法構造的には、東アジア北方系言語に属するものであることは間違いないが、では古代の、少なくとも弥生以降の列島(少なくとも西日本)の住民が北方系かというと、とうてい、そのようには見えない。おそらく、日本列島に稲作などの農耕文化をもたらしたのは(朝鮮半島を経由したとしても)、中国江南地方の南方系少数民族であり、春秋戦国時代の中国社会の激動の中で、大陸から押し出されて、半島、しいては列島へ至ったものであろう。実際、日本語の語彙(もちろん漢語を除いたものであるが)はオーストロネシア系であるという。
 そもそも、倭人といっても、この集団は一様ではなく、中国江南地方でも、呉越の興亡があったように、さらには南方系諸言語も、タイ諸語系、ミャオ・ヤオ系、オーストロアジア系、オーストロネシア系と多様であるように、中国史書などに倭人と総称されても、非常に雑多な民族集団を含んでいたと考えられる。さらには、当然、各地方の漢族、百済人、高句麗人、新羅人なども、歴史時代には流入してきた。
 おそらく、現代日本語が文法構造的には北方系であるのは、西日本の土着倭人諸集団(これさえも弥生期以降の渡来であろうが)、おそらく山間部などに生き残った縄文系諸集団、比較的新しく入ってきた中国・朝鮮半島系渡来人などに支配的地位を持った大和支配層が北方系言語を話す民族集団であったからであろう。この大和支配層は、おそらく百済支配層と同系であり、百済支配層を通じて、扶余系の高句麗支配層とつながっていたのではないうかと思われる。

 だが、上のことはすべて推測に過ぎない。識者の指摘するように、日本語が初歩的に記録される以前の列島に、どのような言語があったかは、実際の所分からないし、結論づけられるものでもない。
 重要なことは、日本語の形成に決定的な影響を与えのは漢語・漢文であり、日本語の語順的ベースとなった言語を、いくら探しても、それはあくまで推測の域を出ないのである。

 ※参考文献
  石川九楊『日本語とはどういう言語か』(中央公論新社 2006年1月10日)
  岡田英弘『日本史の誕生 千三百年前の外圧が日本を作った』(弓立社 1994年10月31日)
  橋本萬太郎『ことばと民族』(山川出版社『民族の世界史5 漢民族と中国社会』1983年12月24日所収)

人類進化における労働の役割 ~昨今の一般向け人類進化解説本から~

 今回、読了した『人類進化の秘密が分かる本』(科学雑学研究倶楽部著 学研プラス、2016年4月5日)、これはコンビニで購入した一般向けの本であるが、現在日本社会で発行されるこの手の書籍は、エンゲルスの指摘した人類進化における労働の役割を否定することに余念がない。
 例えば、この本は約300万年前に生存したアウストラロピテクスの女性(愛称「ルーシー」)について次のように述べる。
 「ルーシーの頭骨はチンパンジーなどのサルに近いのですが、骨盤は人類に近いものでした。つまり、脳が未発達なころから二足歩行をしていたことが、ルーシーの発見ではっきりしたのです。」(同書P51)
 実際、脳の発達により重くなった脳を支えるために二足歩行を始めたのではなく、エンゲルスなどが早くから指摘したごとく、二足歩行によって自由になった手を使って労働することによって、脳を発達させていったのである。
 しかし、同書は労働の役割をおとしめることに熱心である。同書は別のページで、
「人類は直立二足歩行を手に入れたことで、サルとは違った目覚ましい進化を遂げることができました。(中略)二足歩行で自由になった前足は、道具を使う手になり、手先の器用さが脳のさらなる発達をうながします。」(P218~219)
と書き、あくまで手による労働を忌避して、「器用さ」を脳の発達の要因に挙げる。しかし、言うまでもなく、「器用さ」は労働実践の成果であり、労働実践と脳とは切っても切り離せない関係にある。
 そして、極めつけ、「脳の発達をうながす」「もうひとつの要因」として、「ある遺伝子の存在」をあげ、それについてページを変えて力説するのである。なんでも、「脳が発達する段階で、脳の大きさを決める要因を持っている」「ミクロセファリン遺伝子」なるものが発見されたといい、また「大脳皮質を大きくするASPM遺伝子」なるものの存在をあげる。ちなみに、前者を人類が獲得したのは。「分子時計で計算すると」「約3万7000年前」、後者は「約5800年前に獲得」したと推測し、それは「エジプトなどの四大文明が芽生えてくる時期で、人類が目覚ましい発展をとげる原動力と」、その遺伝子が「なったよう」だとする。(P220~222)
 しかし、これも話が逆で、仮にそのような遺伝子の存在と獲得時期が事実だとしても、それはその時期における労働の発展と複雑化が、それらのような遺伝子を人類に獲得させたのであり、そのような労働の発展が人類に知力や文明をもたらしたのである。

『土人」「シナ人」発言に思う。沖縄人は中国の少数民族だとも思っているのか!

 大阪府警から派遣された二名の機動隊員が、基地反対は住民に対して「土人」「シナ人」などの暴言を吐いたことが世間を騒がしている。この二名が、いったいどういう思考回路で、このような発言を行ったかは分からないが、この発言は、「差別暴言」では済まない深刻性を持っている。

 よく、日本政府首脳などが、「釣魚島(日本名:尖閣諸島)は日本固有の領土である。」などと言った言い方をするが、日本政府によると、その「尖閣諸島」は「沖縄県に附属する」と言うが、さすがの日本政府も、「沖縄は日本固有の領土である」などと言った言い方はしないのである。しかし、沖縄が四国や九州などと同じく、日本に属することが当たり前の土地かというと、決してそうとは言えない歴史背景がある。誰も否定しようがない事実なのだが、沖縄には「琉球王国」が存在して、中国王朝に朝貢しており、決して日本領とは言いがたい存在であった。それが1875(明治8)年~1879(明治12)年の琉球処分により、琉球王国を廃止され、沖縄県として、日本政府により強制的に近代日本国家の中に組み込まれてしまったのである。
 日本人として忘れてはならないのは、明治初年の力関係によっては、沖縄は独立していたかもしれないし、中国領になっていたかもしれないということであり、戦後だって、「もし、中国で共産党が勝利せず、蒋介石率いる国民党が勝利していれば、アメリカは沖縄を日本ではなく中国に返還しただろう。共産党が勝利したから、アメリカは沖縄の基地を維持するため、日本に返したのだ。」との見方も成り立ちうるのである。
 上記、琉球処分に際して、自由民権党派の中には、「琉球が独立を欲するならば独立させるべし」と主張した者もいたと言うが、実際、独立するも、中国に付くも、日本に付くも、それは沖縄の自決権なのであり、沖縄が日本への返還を希望したのも、まず彼らが日本を選んだと言うことを忘れてはならないだろう。
 そもそも、日本政府自身が、こんな沖縄の特殊性、独自性を熟知しているからこそ、戦後、本土ではあり得ないような米軍基地負担を押しつけてきたのではないのか。最初に挙げた機動隊員の暴言も、そのような日本政府の沖縄蔑視の姿勢の反映であるとしか、筆者には思えない。

 それにしても、「土人」、「シナ人」とは、よく言ったもので、この両者を上に上げたような沖縄の歴史的背景と照らし合わせると、実に恐ろしい結果が出てくる。例えば、「土人」とは、ある国で、多数派住民とは「異質」な生活背景を持っている先住民や少数民族を蔑視して、言われる場合がある。そして、「シナ人」(中国人に対する蔑称)発言。まさかと思うが、機動隊員は沖縄人を「中国の少数民族」であるとか、「中国から奪った植民地の住民」とでも思っているのだろうか。実際、もし明治初年、沖縄が清国領になっていれば、今頃、沖縄は中国の琉球民族自治区になっていたかもしれないのである。
 少なくとも、筆者には機動隊員の発言は同じ日本人に向けられたものとはとうてい考えられないし、沖縄での米軍基地建設を地元の意向を無視して強行する日本政府の姿勢も同様である。
※そう言えば、沖縄戦の際も、琉球方言を話す沖縄人が日本軍から「異民族」視され、スパイの嫌疑を受けた結果、あろうことか殺害された者も少なくないという。

我が国における火葬と土葬

 約2年ぶりにブログに記事を書くことにする。

 近頃、キンドル(アマゾンの電子書籍端末)を買ってから、アマゾンで著作権の切れた青空文庫の文章を0円で「買う」ことが多い。中島敦などの小説だけでなく、内藤湖南、喜田貞吉などの歴史学者の文章もダウンロードしているのだが、ただだから、たくさんダウンロードして読まないことが多いのだが、たまたま昨日は、喜田貞吉『火葬と大蔵 焼屍・洗骨・散骨の風俗』(1919年)なる一文を読んだ。

 なお、私が読んでいて感心したのは、文中、以下の記述である。

 続日本紀に、文武天皇四年飛鳥元興寺の僧道照和尚遷化してその屍を焼いたのが、我が国火葬の初めだとある。(中略)しかしそれ迄に屍を焼くという風習が少しもなかったものならば、いかにそれが便宜な 葬法だからと云っても、(中略)、これをある場合における常法として法令上強行せしめるまでに、そう急に進展すべきものではなかろう。
 自分は固く信ずるよしや火葬という事が道照によって始まったとしても、屍を焼くという事は遠い古えから我が国に行われていたのであったとの事を。


 実際、喜田も指摘するごとく、「葬儀の如きはことに旧習を重んじて、容易に変化し難いものである。」実際、土葬を伝統とする民族の火葬への大きな抵抗を考えれば、喜田の指摘はもっともであり、実際、2012年5月10日の朝日新聞の記事によれば、「日本列島で火葬が行われるようになったのは、かなり古い。縄文時代には各地の遺跡から火葬された人骨が見つかっている」という。
 なお、喜田はさらにいう。
 果たしてしからば続日本紀に、道照和尚栗原の火葬を以て、「天下の火葬此れより始まる也」と書いたのはいかに解すべきか、これは葬送の一つの儀式として、仏式により高貴の御遺骸をも荼毘に附するという様になったこととの初めだという訳で、単に屍体を焼くという広い意味のものではあるまい。

 確かに、仏式の葬送儀式として火葬が行われるようになった初めが道照師であって、それ以前、死体を焼くということが日本に存在しなかったわけではないだろう。

日本の現行硬貨を知ろう

 まず、外国の硬貨を紹介する前に、日本の硬貨について、おさらいしておきましょう。
 現在、発行されている硬貨は次の6種です。

1円アルミ貨

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 昭和30(1955)年から発行されています。金属成分はアルミニウム1000(100%)です。

 新5円黄銅貨

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 現在の新5円黄銅貨は昭和34(1959)年から発行されています。それ以前の旧5円黄銅貨との違いは字体が旧5円の楷書体かrゴシック体に変わったことです。金属成分は銅600/亜鉛400です。

新10円青銅貨

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 新5円黄銅貨と同じく昭和34(1959)年から発行されています。それまでの旧10円青銅貨(いわゆる「ギザ10」)と図案も大きさも一緒ですが、ギザがなくなりました。当時の100円銀貨にギザがあったので、ほぼ同じ大きさの10円は、目の不自由な人々などが、手で触って区別できるようギザをなくしたのです。

50円白銅貨

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 昭和42(1967)年以来、この小型穴あきの50円が発行されました。金属成分は銅750/ニッケル250です。

100円白銅貨

 
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 50円白銅貨と同じく昭和42(1967)年から40年以上発行されています。金属成分は50円白銅貨と同じく銅750/ニッケル250です。ほぼ同じ大きさの新10円青銅貨と区別できるようギザがあります。

500円ニッケル黄銅貨

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 平成12(2000)年以来、従来の500円白銅貨に替わり発行されました。金属成分は銅720/亜鉛200/ニッケル80です。白銅貨に比べて黄色みを帯びているのは5円玉と同じく亜鉛が含まれているからです。

 以上の6種が現在、日本で発行されている硬貨です。



★古代ギリシャ銅貨★ リュシマコス王 BC.305-281!!【YDKG-u】
OZ Collection
トラキアのリュシマコス王の銅貨です。表面銘字: - 表面説明: フリギアのヘルメットを被った男性の横

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1厘銅貨 明治7年 完全未使用
アイコインズ・楽天支店
完全未使用の中でも特に、銅貨はレアです。見た時にゲットして戴きませんといつ入荷するかは泉運(せんうん

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近頃、コイン収集に凝っています(再掲)

 ※2010年11月25日の記事を誤って消してしまったので、キャッシャから復元します。

 ほぼ半年ぶりのブログの更新になるが、私が今凝っているのは、コイン収集である。これは、大体、次の4分野のものを集めている。

1)昭和期の全古銭、発行年ごとに全種類集めるつもりで、既に高価なもの2種以外は集め終わった。そして、追加として、大正以降のものを集めており、これも数種以外全部集め終わっている。

2)現行コインの年号ごとの収集。昭和51年でいったん終了していた収集を昭和期全部、そして平成に拡大している。これは終了のめどが立たない。

3)中国の古代銭(漢代の貨幣や永楽銭などの日本への渡来銭、更には清朝銭、清末の洋式銅貨や民国時期や現代の通貨。これはぼちぼちやっている。正直、古代銭や近代銭はやり出したら、きりがない。

 4)中国台湾省の硬貨や偽満州国の硬貨、日本の傀儡政権である汪兆銘政権の通貨。これもぼちぼちやっているが、レアもの以外はそう難しくない。

 5)その他、諸外国の通貨、アメリカのものが多いが、上記以外の東アジア圏の通貨も集めている。


 これら収集したコインを写真撮影し、コインのホームページを作ってみたいと思っているのだが。




古銭と紙幣—収集と鑑賞 無文銀銭から現行貨幣まで
金園社
矢部 倉吉

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中国の現行コイン(1)

 80年代以前に中国に行かれた方なら、よくご存知の5分・2分・1分の3種のアルミ貨(多分、1円玉と同じでアルミニウム100%)です。2000年に行った頃には、まだ流通していましたが、近ごろ、5分は見かけても、2分・1分はほとんど見かけないそうです。


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 裏面は3枚とも同じで中華人民共和国の国章が描かれています。

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 もとい、これが表面です。「中華人民共和国」とあるのが表面で、この点、日本の硬貨でも、「日本国」の文字があるほうが表面です。「中華人民共和國」と旧字体でかいてあることに注目です。これらの硬貨が発行されたのは、55・56年で中国でも文字改革(簡体字が採用された)の前です。今なら、「華」と「國」が簡体字になります。

 次の10円玉はつまり裏面です。大きさを比較してみてください。

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日本貨幣カタログ〈2010〉
日本貨幣商協同組合

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タリバン、「7歳児処刑」と言うが、

 Yahoo!ニュースが、CNNの報道を引用して、「政府のスパイとの理由で7歳児処刑、タリバーンか アフガン」というニュースを流しているが、欧米にもかの『マテオ・ファルコーネ』の前例がある。
 まさか、CNNも『コルシカは欧米ではない」とは言うまい。

 なお、子供の犯罪については、以下のサイトを参照されたい。

  http://www8.ocn.ne.jp/~moonston/lkillers.htm

 これらは全て欧米日での例である。

 もちろん、私はタリバンの上の行為を決して支持しているわけではない。もっとも、それを言うならば、決してCNNの報道を信用しているわけでもない。

在日外国人参政権に思う(2)

 筆者は基本的には、在日外国人への地方参政権には賛成していない。なぜなら、前の記事で書いたように、筆者は日本国籍の中国人(あるいは中国系日本人)や韓国朝鮮人(韓国朝鮮系日本人)の存在を認め、アイヌ族や琉球族とともに日本の少数民族としての地位を保障し、日本は多民族国家として進むべきだと考えるからである。
 在日外国人への参政権付与は、日本はあくまで日本人だけの単一民族国家であるが、妥協的に地方参政権を与えるとい非常に安易無原則な施策だと考えるからである。

 もっとも、現在、在日外国人参政権に反対している人の意見を聞いていると、正直、声高に反対を表明する気になれない。なぜなら、余りに彼らの反対論がグロいからである。

 それにしても、そもそも反対論者が主張しているように、在日外国人の大多数が参政権を要求しているのだろうか?
既に日本で最大の在日外国人集団である中国人(一時滞在だけでなく、今後、永住者にしても、韓国朝鮮人を抜くであろう)が参政権を求めているなどといった話は過分にして聞かない(もちろん中には少数ながら参政権を要求している人もいるのかもしれない)。韓国朝鮮人にしてから、確かに韓国居留民団は積極的に賛成しているが、朝鮮総連は明白に反対している。また、韓国籍の人にしても、日本人の政治対立が韓国人の中に持ち込まれるとして、反対している人もいるという。

 それとともに、筆者が在日参政権に反対しない大きな理由の一つは、日本社会の現状である。多民族国家を言う前に、日本人の少なからぬ人々は帰化に対して非常に高いハードルを設けている。特に筆者の前記事に付けられた「通行人」氏のコメントに見られるように、「帰化するということはいろんな側面で日本人になるということ」(下線:筆者)と、政治主張においても、「日本人になれ」と言わんばかりに、必ずしも日本人の中でも一致しているとは限らない政治主張を(帰化を希望する外国人に)持つことを要求されるのである。
 このような現状では、当然、「帰化など考えられない」という外国人が排出するのも当然であろう。
 亀井静香氏などは「帰化のハードルを低くすべきだ」とのご意見らしいが、このような日本社会の現状に対して、どうお考えなのだろうか?